否定ができない/雑記

世間が2005年にタイムリープしている間に、わたしは2017年という年月に打ちのめされて、それでもここに残ろうと決意していました。お元気ですか。最近考えていることです。

 

 

否定ができない。

正しく言うのなら「現状を否定できない」。今日に至るまでの「選択」を否定できない。たくさんの可能性の中から選ばれた今日を否定できない。否定してしまうということは、自分にとって「死」と同義であるようにも思われる。肯定できないのに生きているなんて意味がない。

たとえ、現状に不満やミスがあったとしても、それはそれでいい。死ぬまでに高得点をとればいいのだから、昔より点数が低いということがなければ、それでいいのだ。逆に言えば、昔の方が点数が高いなんてことがあれば、それすなわち「死」である。生きている意味がない。そうじゃない? そうじゃないのかな。現状に不満があって昔の方が点数が高かったら、それはどこかで自分が選択を間違えてそれをいまのいままで修正できずにいるということでしょう。間違えたまま生きていくのなんて怖すぎる。

過去を否定することが怖い。現状をばっさり否定してしまえる人が怖い。いまも未来も過去も同一線上にあるんだから、否定しかない過去やいまの先に、肯定される未来が来るとは思えない。本当に本心から「今が一番」とは思えなくても、そう思って、そうあるように生きていかずにどうやって生きていけるのだろう、と思う。頭の中で仮想敵が、ずっと異様な生きざまを見せてきます。今を否定するようなことばを口に出したら、それこそ「呪い」のように、そうなってしまうのでは? 

というよくわからない恐怖に悩まされながら、学生生活最後の越冬中です。

 

 

夏の予定だけぽんと出されてしまったときには気が付かなかったけれど、(というか私には春ツアーの予定があるので気にしていなかった)(ここ数年夏の現場が夏という理由でたのしいので浮かれていた)つまり、夏まで自担ちゃんは暇なんですか? 暇って言い方は相当失礼だよなあ、といつも思う。毎週出演するわけじゃないものも含めてテレビのレギュラー番組が週3本ある人に対して「暇」とはいかがなものなのか。「当社比」とやら? オタクの身分で「当社」とは。働くのは自担であって、わたしたちじゃない。忙しくはなるけれど。

そういえば、他人の使う「盲目」のことばが気になる。大抵「盲目」は「モンペ」と同義かのように使われている。

もう‐もく〔マウ‐〕【盲目】

[名・形動]
目の見えないこと。
他のものが目に入らず、理性的な判断ができないこと。また、そのさま。「恋は盲目
デジタル大辞泉小学館

 わたしはこの「盲目」の語意のふたつめにある「他のものが目に入らず」という部分を特に気に入っていて、そのためか、「盲目」ということばは、ただ「理性的な判断ができないこと」なのではなく、「他のものが目に入ら」なくて、初めて「盲目」と呼ぶにふさわしい状態になるのだと思っている(そもそも目が見えないことを「盲目」と呼ぶのだから)。他のものが目に入っている時点で「盲目」とは呼べない、と考えている。

この「恋は盲目」という、最高にすべてを正当化してくれていることわざに敬意を払うために、わたしは「盲目」を良い意味で使いたい、「恋は盲目」の語意で使う場合には。恋以外の対象を貶めるための手段として「盲目」を使いたくない、し、使われたくない。

「盲目」だというのなら、他のものを目に入れてはいけないのだ。語義に反することになる。

ちなみに「モンペ」は

モンスター‐ペアレント

《〈和〉monster+parent》学校や教育委員会に対して理不尽な要求や苦情を繰り返す保護者をモンスター(怪物)にたとえた語。モンスターペアレンツ。モンペア。モンペ。
デジタル大辞泉小学館

 とある通りなので、「理不尽な要求や苦情を繰り返す」自覚のある方は使えばいいと思います。そもそも親ではない。ほとんどのオタクは担当を産んでいないのに、担当がオタクに産んだかのように錯覚させているんだろうか。おそろしい。

わたしは「盲目」なんだろうか、「モンペ」なんだろうか。最近はやりの「リアコ」ではないだろうし、よくわからない。

 

わたしは(わたしはというだけなのだけれど)、自担がクソ暇でも「あ~暇だな~~暇な時期ですね~」と思うくらいで、他が羨ましいと思うことはあまりない。誰が推されているとかも、こちらが推されていない、とかも。感情の欠落なのか、ゆとり政策の弊害(恩恵)なのか。「当社比(便宜上この言葉を使います)」も、まあ上記の「否定できない」に繋がるところですが、変わっていくことを肯定できないのなら生きている意味が(以下略)。

 

また、話が逸れるのだけれど、「否定できない」のなかでも、最近考えていたのが「再録・新録を否定できない」ことだった。

「BJ」とか「さくらガール」「I.ZA.NA.I.ZU.KI.」とか。ちょっとまえなら「Heavenly psycho」とか「Do you agree?」とか。どの曲も全然聴けた。普通に聴けたし、なんなら一週間くらいずっと聴いていたりする。エイトはまあ好むか好まざるかはさておき、聴けるだろうとは思っていたけれど、NEWSに関しては正直自信がなかった。自担という最も大きい存在の有無。いままでの音源には自担の声がはいっていたような曲たちが、その自担の声を排除したバージョンに変えられて収録される。オリジナルの音源も当然残るけれどわざわざ再録する必要があるのか。再生していざ聴いたときに、自担の声がしないことにショックを受けるかもしれない、とちょっとだけ考えていた。

でも、ショック、受けなかったんですよね。まったく。

4人の「さくらガール」が予想以上に良かった。クリアな音源として何度も何度も聴いているうちに、オリジナルとちょっと違うアレンジ、数年前とは違う歌の癖、コンサートで聴くよりずっと丁寧で、正直どっちのバージョンが好きか選べない。2017年もNEWSが好きで、NEWSが好きだから購入したシングルだったから、当然2017年のNEWSの歌声を否定できるわけがなかった。この「さくらガール」だから、というのが大きい、「さくらガール」なら仕方ないかな、って思わせられる。いろんなところで、いろんな人の想いを乗せて歌われてきた、大切な歌だから。たくさんのかたちがあっていいんじゃないかな。

全部を肯定するわけじゃない、けれど、「リマスターにする必要はあったのか」とはいくらか考えるけれど、たしかに全部を肯定するわけじゃないけれど、これはこれでよい、とも思う。まあだって脱退時から音源通りには歌われていないわけだしね、いまさらだよね、 妥協点? いわゆる「ご都合主義」なんだろうとは思うけれど、オタクとしてこれくらいの「物語生成」はみんなしてんじゃないかな。みんな文字にして発信すればいいのに。そうしてたくさんの「目線」から書かれる、たったひとつのアイドルという事象。たった一人しかいない「担当」 エモいね。

 

変わっていくことを恐れるようになるのが、怖い。

変わっていくことを許せなくなるようになるのが、怖い。

 

むかしはよかった、いまにくらべてむかしはよかった、なんて口にする日が来たら、と思うと怖い。やっぱり、呪いみたいだと思ってしまう。

変わっていく自担を長い目で愛せるオタクでいたい。変わっていく環境を憂いてばかりとか後ろ向きなことに、捉われたり、してしまわないだろうか。不安でいっぱいで、怖くて、でも、毎秒「好き」が確かに更新されていくので、このまま更新されていく限りはアップデートされていくんだろうと思う。感情には抗えない。

こうして頭でっかちに考えているのは大抵、自担を見ていないときだ。自担を見たときのときめきは、たしかに、たしかなものなので、怖がりながらもときめきを頼りに、この一瞬をアップデートさせていく。一瞬、一秒、一日、一年。毎秒の「可愛い」を追いかけていたらいつのまにか一年が終わっていく。過去のそういう、毎秒の「可愛い」を否定したくないから、やっぱり、わたしは否定できないままなんだろうね。

彼が死ぬときに、「まあよかったんじゃない?」と過去を全部肯定したい、きっとそういう風に思える終末を彼なら迎えてくれるんだろう、と信じている。細やかな不満なんてさしたる問題じゃないよ、数クールドラマがなくたって、ねえ。ファンが憂うことじゃない、とまでは言わないけれど、わたしが憂うようなことじゃない。かわいいまま、その美学を貫いていてください。人格者じゃないとは知っているけれど。

わたしが彼の性格を許したり(ここでも思うけれど「許す」ということばの尊大さったらないね)、わたしが同じグループの他のメンバーのいろいろを許したりするのは、他のメンバーのファンにも彼が同じように許されてほしいからだ。わたしが、錦戸亮ちゃんのことを好きな熱量と同じくらいの熱量で、他のオタクは他の人を好きでいるんだろうと思えば、ああ、と思う。他のメンバーに「興味がない」でもいいから、それがフラットであればいい、平和だ、と思う。「興味がない」から「いらない」とか切ないよね。最近とても、自担のことを許してくれているメンバーがありがたいと思うようになっている。なんでか。「人格者じゃない」と気が付いたからかもしれない。いまさらか。

 

レンジャーの破壊力がすごくて、ずっと引きずっている。自担と同じ国にしばらくいなかったからかもしれない。

同じ国で、同じ言語(しかもだいたい同じ方言)で、同じ時代に生きている奇跡を、もういっかいちゃんとかみしめたい。もしかしたら、大好きなのかもしれない。