錦戸亮主演「羊の木」/ぼんやりとした感想ネタバレあります

情報解禁日から一年半、完成披露試写会で観てから一ヵ月半、ついに劇場で「羊の木」を観ました。

「2018年公開」という果てしなく遠い未来のようだった映画公開の日が、ついに訪れて、当時よりいまだに変わらない熱量で錦戸亮のオタクをしている自分に呆れたり感慨深くなったり胸をなで下ろしたり、さまざまです。どんどん「好き」が増していくばかりで恐ろしい2018年です。

12月に行われた完成披露試写会で司会進行の女性が、舞台挨拶終了後、上映が始まるまえに一言挨拶してくださったなかでおっしゃった「この映画の意味がわかるのが3年後か、5年後かはわかりませんが…」という一言の意味を、わたしは映画を観終えた後に思い知ったのでした。この映画の解釈について答えを出せないまま長い間考え続けるに違いないけれど、それはきっと将来何かのタイミングであっさり解決されてしまうんだろうという予感。わからないと頭を悩ませていればいつの日か、「あ、こういうことだったんだ」と悟る日が来るのだろうという気配。「羊の木」にはそういう気配がある。

 

以下ネタバレを含みます、自分のメモのような感じです

まともな感想ブログだと思ったら痛い目を見ます

 

 

▽完成披露試写会

12月13日の完成披露試写会は、上映前に舞台挨拶がありました。今思い返せば、初めて一般のお客さんが観る、ということ、上映前に舞台挨拶があったということ、どちらも結構映画を観るこちら側の心境に影響を及ぼしてたんじゃないのかなって。錦戸亮ちゃんがのちのインタビューで何度も語った「全然笑うようなシーンじゃないのに笑い声が上がったシーン」、とか、多分観る側の心が開いていたからでは? 上映前の役者さんのコメントの時点で、もうすでに彼のことを赦してしまっていたんだろうと思う、わたしは。わたしは全然笑えなかったけれど(顔がめちゃくちゃ良いとは思ったし、そういう意味で悶えた人も一定数いたと思う)。だって酔っぱらってあんなに乱暴になる人だとは知らなかったし。

舞台挨拶の雰囲気めちゃくちゃ和やかだったんですけれど、時折つまずくんですよね。「衝撃」という言葉に影響されないでほしい、というコメントだったり、「おかしみがある」という監督の言葉だったり、そういう柔和なコメントの一方、あの役は自分のことだと思った、というようなぐっさり刺さるコメントもあったりして。それでも和やかだったんです、ファンクラブで当選した人間はいつも通り盛り上げてくれと指示も受けましたし。

どのあたりからだっただろう、「どちらから?」「新幹線で来ました」の噛み合わない会話や、宮腰が「小躍り」するシーン、月末が父親に「まずい」と言われるシーンで上がっていた笑い声が、すっかり止んでしまったのは。不穏な気配のなかでも笑っていた気丈さが、ついに見えなくなっていくあの会場の雰囲気は独特で、きっと初見の人が醸し出す緊張感が周りに伝播していったんだろうとおもう。喉の奥がひりひりして、たまらなくて、こわくて(これが「こわい」という感情なのかもわからなかったけれど)、観終えたあと、何も言えなかった。もう二度は観られないかもしれない、とも思った。明るくなった会場から言葉数少なに出ていく観客のあの何とも言えない疲労感と、「なんだったんだろうな」と心のなかで唱えていたあの日を思い出します。

 

 ▽「DEATH IS NOT THE END」

「死は終わりではない」ってどの「死」のことを指しているんだろう。「殺人者の歌」というアルバムに収録されているらしいけれど、これを歌っているのが殺人者であるのなら、新住民の彼らであるのなら、その「死」は、彼らが殺めてしまった人々の「死」ということになる。でも、本編で最後に「死」ぬのは、宮腰だ。

宮腰にとって「死」は救いだったんだろうか、とずっと考えています。「死は終わりではない」と歌われるのだから、死んだところで宮腰にとっての苦悩は続くのではないのか、とか、じゃあ、「死」は救いではなかったんじゃないか、とか。輪廻ってそういうものじゃなかったっけ。けれどそれでは、あまりにも報われない。

でも、そもそも殺しておいて「死は終わりではない」なんて、そんなのおまえの理屈なだけだろ、みたいなことも頭を過ぎったりして。(杉山は「死んだら終わりだ」と言いそうですね)でも、多分きっとそういうことじゃないんだろうなあとは思う。殺してしまったけれど「死は終わりではない」、そう歌うのは、主張や言い訳じゃなくてきっと祈りなのだろう。暴力を振るう恋人を殺した栗本が埋めた死骸から芽が出る。二尾の魚を購入して一尾だけを食べ、もう一尾は土に埋める栗本の行為が、わたしには死んだ恋人に捧げた供物に見えた。「死骸」はそれ自体を埋めて弔ったのだと思うのだけれど、あの魚だけは恋人への弔いだったのだろうと思っている。「さよならじゃない」、生まれ変わってまた新たな命へと育っていく。殺しても殺したという事実から逃れられはしない。弔いの先の希望。映画を観てからしばらく経ってようやく、宮腰にとって自分自身もそうだったのかもしれない、と気が付いた。

 

▽月末さん

月末さんの顔が最高に良い。そりゃあ顔が錦戸亮なのだから当然、映画だってもちろん真剣に見ていました、見ていましたよ、でも顔に惚れている人間なので顔のことだって言わせてほしい。カミソリのシーン。宮腰と同じ部屋で眠ってしまうシーン。無駄に顔が良い運転中の横顔のシーン。パトカーを追って港まで来たあのシーン。あれぜんぶ2016年の錦戸亮の顔です。たまらんね。前髪分けている公務員スタイルに慣らされたかと思えば急にベースを前髪下ろして弾くんだからもうさあ、しんどいよ。しんどい。「自分、顔が錦戸亮なのわかってる!?」と月末さんに詰め寄りたくなった。ベース弾いてるとき文の方を見る目に熱が籠ってるのとか、須藤に文と宮腰が付き合っていることを暴露されたときの顔とか、バンド終わりにコードを後ろ足で蹴り上げるのとか、普通にもう好きしかない。映画の内容の濃さに没入するような心地もあれば、時折「そうはいっても顔が!!!」みたいな我に返る瞬間があって非常に感情がいそがしい。

 

 

▽宮腰と月末

宮腰のセリフで一番印象的なものが「のろろ様、怒ってるんですかね」と囁くあのセリフだった。どことなく、のろろ様が怒るのは当然、自分が怒らせるようなことをしてしまった(してしまうに違いない?)、とでも言いたげな風に感じて、宮腰の底知れなさにこわくなった。

終盤の宮腰に対して、クリーニング屋での「人が肌で感じることはだいたい正しい」という言葉を思い出したりしたけれど、文が宮腰に触れられたのをやんわり拒絶したときになにかを肌で感じたのだろうと想像がつく。人を殺した気配とか、そういうもの、たとえば、「どうせ死刑」みたいな諦めとか。そういうのを月末はいつ感じ取ったのだろう。少年院に入っていたと知ったのに、同じ部屋で眠るの、って、どういうことなんだろう。あのあたり本当に心臓がひりひりしてたまらない。宮腰の「好きだって知ってたら付き合わなかった」「ずっとまえから月末くんと一緒にいるみたいだ」とか、ベースじゃなくてギターを始めるところ、なんだか宮腰の月末への執着のように見えたりして。

「それ、友達として聞いてる?」

わたしは、月末が文に、宮腰が刑務所にいたと暴露してしまったあと我に返って「だれにも言わないで」と懇願するところは、友達としてじゃなくて市役所に勤める人間としての発言だったと思っている。けれど、そのあとすぐに宮腰に電話をして謝罪をする、あれはやっぱり月末が宮腰に言った通り、「友達として」だったんじゃないかな。たとえ、月末があのときに初めて宮腰のことを「友達」と認識したのだとしても、それまでの「友達」という言葉を否定できるような空気じゃなかったとしても、あのとき友達だと答えてしまったのだからもうそこからはきっと友達だった。人を殺したことのある友達。

宮腰はどうして人を殺すんだろう。「正当防衛」なんだろうか。行き過ぎた正当防衛。自分のことを脅かす存在への恐怖が衝動なのだろうか。文のことを本当に殺そうとしたのか。

そうして宮腰のことをどんどん考えていくと、宮腰にとって月末はなんだったのか、ということを考えないわけにはいかなくなる。なんだったんだろう。「どうせ死刑」の裏側に「どうしたって月末のようにはなれない」という絶望があったのではないか。「人殺しだよ、今までも、昨日も今日も、そしてこれからも」ちゃんと分かっていて、それでも乗り越えられない絶望。絶望のまんなかにいた宮腰にとって月末はなんだったんだろう、救いだったんだろうか、希望だったんだろうか、可能性だったんだろうか、それとも、トドメだったんだろうか。もしかすると、そんなに大層なものではなくて、ささいなきっかけのひとつにすぎないのかもしれないけれど。

正直、宮腰と月末の完成しなかった関係性にロマンを抱いてしまっていて、そのあまりの哀しさに打ちのめされたままで、まだまだ解釈がおいついていない。けれど、宮腰が「死」を選んだことにきっと月末は関係しているだろうから、と思うと頭を抱えてしまいそうになる。しんど~~~~~~~~。オタクとしてのわたしが悶え苦しんでいるので答えを出すのはもうちょっと先にしたい。

 

▽「羊の木」という理

↑フォロワー限定公開だったのでこちらに→*1

ひとつ大きな自然として「羊の木」があって他の受刑者は、その理のなかで更生するのだけれど、宮腰だけはその理から外れて、放り出されたんじゃないか、と自分のなかで思ったりもしていて、うまく言えないし、解釈として歪だとも理解してはいるけれど。殺されることに意味はないから殺された人も理に自然と組み込まれていくなかで、宮腰はその大きな流れから振り落とされた感じ。のろろ様みたいな大きい存在によって。宮腰は、のろろ様みたいなものに怒られたかったのかもなあ。

と考えながらも、エンドロールが上から下に流れていくのを見て、二人だって崖から落ちたのだし、光も空から地上に差し込むわけだし、どうなんだろうなあとぼんやり想像してみたりもします。

と、お察しの通り適当な言葉を並べながら統合性なんて気にせず仮説だけどんどん立てては、結局宮腰のことばっかり考えている。あんだけ何にも考えずに人を殺したくせに、ずるいね。

 

 ▽さいごに

思うまま感想を書いていったら、自分のなかで思ったよりまとまっていないことに気が付いたので(書けば考えも整理されるかなとおもった)、とりあえずもう一度観に行ってから考えようと思います。思いがけない人から一緒に見に行こうとお誘いいただいたり、友人から観に行ったよと連絡もらったり、たくさんの様々なひとが興味を示している映画なんだなーと実感して、オタクとしては大変うれしい。錦戸亮ちゃんの演じる「普通」が醸し出す良さを、ここまで映画のなかで大切にしてもらえるとは思ってもいなかったし、監督にも評価してもらえていて、たまらなくうれしい、ほんとうにうれしい、と噛みしめてしまう。ずっと、こういう映画らしい映画に出てほしかったし、ましてや主演だし、いままでの仕事を観てのオファーだって知って、なんだか勝手に報われたような気になった。にしたって2016年にこんな映画撮っておいて、しれっと「足を運んでください」とか「いったん忘れてもらって」とかやってた錦戸亮ちゃんほんっとにいい加減にしてほしい、爆弾抱えすぎやろ、もう。挙句、「羊の木」撮影期間中に「Tokyoholic」つくってたって、錦戸亮という人間の底知れなさに思わず笑ってしまう。天才かな???? 知ってたけど!!

錦戸亮ちゃんが出ていなかったらもしかしたら観ていなかったかもしれないような作品のまんなかに、主演として錦戸亮がいるのがめちゃくちゃ嬉しいの、分かってもらえますか。

前売り消費しながら毎回ちゃんと考えたいなあと思う。パンフもまだちゃんと読めてないので読むぞ~~、と思いながら、こうしていろんなひとの「羊の木」に対する考察解釈感想に触れながら自分と違う見方を受け入れていくことが、もしかしたら、いちばん大切なことなのかもしれない、と考えてみたりしています。

こうしてオタクみんなでうんうん唸るような映画を、わたしたちに見せてくれてありがとう。という気持ちでいまはいっぱいです!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:宮腰があの「羊の木」という理から逸脱しているとする捉え方だったけれど逸脱していないと捉える見方もあったことを