平成最後の夏を迎えるにあたって / 「NEWS ARENA TOUR 2018 EPCOTIA」

 

 

なんでもそうだけれど、終わりがあると知りながら生きるのって当たり前だけれどなかなかつらいことですよね楽しければ楽しいほど終わるのがさみしい、ってツアーが始まる度に言っている気がする。今回も例にもれず「EPCOTIA」ツアーがもう終わってしまったことまだ上手く受け入れられずにいます。最高のツアーだった、最高のアルバムだった、最高だったよ増田さんあのシゲアキさんの二着目の衣装につけてくれた紐!!!!!!!!

「TWINKLE STAR」の良さがどんどん日を増すごとにわたしを覆い尽くしてきて、いまではもうずぶずぶです。あの衣装。あの立ち姿。あのさあどんだけ好きにさせるの!? 信じられないくらいNEWSかっこよくて、信じられないくらい信用しきってしまっている自分に笑えてくる。ずぶずぶがすぎる。もう無理じゃない? NEWSを知らずに生きていくなんて無理じゃない?

いままで見たことないくらいに、踊って、動いて、汗まみれになってもずうっと笑っているNEWSのあの笑顔見たら、わたしの信じたいものはたしかにここにあったんだなあ、としみじみ実感するしかないわけです。口で言うだけなら簡単かもしれないけれど、週末土日の三回公演。あれでも全員30歳を過ぎて、もう体力的にも誤魔化しだけではやっていけないだろうことは、つまり彼らのきちんとしたコンサートへの意気込みを証明することになるわけで。いやまあそんなことどうだってよくて、裏側に敬意はもちろんあるけれどコンサートのかたちとして見たあの光景がどれだけわたしの心を打ったか、それだけなんですが。盲目だろうが頭が沸いていようが、わたしはわたしがコンサートで感じた気持ちだけを信じて生きていくと決めているので、自担がいないことを自分がどう思うのかよくわからなくて、毎年薄まっていく自担の気配を寂しがったり一方で安心したり、「いない」こととか「かつてはいた」ことを思い知らされたり、しながら、やっぱりそれでもNEWSが好きだということをそのたびに実感させられて、どうにかこうにか、5年くらい。

シゲアキさんってあんなに屈託なくファンに笑いかける人だったんだなあ、というのがわたしの「EPCOTIA」ツアーの最大の気づき。すっごいかわいい。もうこの世界で多分一番屈託のない笑顔だった、知らなかった。わたしは全然何にも知らなくて、あんなに綺麗に踊るのも、全然知らなかった。めちゃくちゃ好きだと思った。

錦戸担なのでシゲアキさんを選ぶのは自明でしょう? という論調もわかる、わかる、とってもわかる、惹かれる要素の共通項をたしかに持ちすぎている、けれどこちらは四分の一を選んだわけじゃなくて、他の三人と並べて「錦戸担なら」と選んだわけじゃなくて、自担以外のすべてから(別に誰かを選ばなくてもいいのにそれでも)、彼を選んだんだった、それがたまたまかつて同じグループだっただけで、と、思ってはツアーの移動中泣き出しそうだった。びっくりするくらい惚れている。ツアーの感想言う気がなさそうなブログですね。ツアーに入っていないひとにはなんのことだかさっぱりの熱量しか伝わらないであろう文章が続きますので、各位判断してページを閉じてください。錦戸と加藤のユニット曲がないまま、平成が終わりそうです。

 

 わたしの敬愛する作家の小川洋子さんが、以前トークショーで「小説において愛というものはそれほど重要なテーマなのか?」という風なことを冗談交じりに話していたことがある。詳細なことは覚えていないけれど「印刷された言葉は歌に負けるのでは」と先生が話したことだけはっきりと覚えていて(胸に迫る「愛」のようなものは歌であるとかそういう身体的なもので伝えることがもっとも効果的なのではということ)、最近のシゲアキさんの見るたびにそれを思い出したりする。歌、声、肉体。シゲアキさんが活字という「静」を深めていく一方、血の通った肉体や歌声が切実に訴えかけてくるような気がしてたまらなくなる。「静」だけでなく「動」をああまで手にしたシゲアキさんの無敵さ、さいこうでしょう。打ちのめされたくなるでしょう。

「EPCOTIA」ツアーの良さ、わたしが事細かにレポしなくたって、もう充分に言いつくされているだろうし、「好き」が高ぶりすぎて正直なところあんまり覚えていないのが実情。ここがああよかったとか、ここが最高だった、とか、わざわざひとつひとつ掬い上げていく必要もないくらい、すっごいよかった。本当によかった。「よかった」と言うだけで察してほしいくらいの「良さ」だった。はやくDVDで観たい。きっともっと良い光景が見られる気がする。

ただひとつだけ言うなら、アンコールは叫ばせて、手放せないペンライトを持たせておいて手を繋がせないで、あなたたちに直接訴えかけられないレスを求めないで。ひとつじゃなかった。でもこれくらい。魅せるばっかりじゃない、一方通行じゃない、でももっとしっくりくる方法が見つかればいいなあと思う。

ツアー期間中にぽろぽろいろんな仕事の情報が解禁されていくなか、肝心の彼らによる15周年イベントにあたるものがなかなか発表されず、あらゆる会場のスケジュールを検索しては可能性を探したりしていたけれど、オーラス昼公演で、15周年コンサートの開催を知ったとき本当にうれしかったなあ、といまだに惚けてしまう。エモエモのエモ、彼らの15周年という長さがもたらすような楽曲のエモさを徹底的に排除して、世界観の構築に臨んだ「EPCOTIA」があまりにも良すぎたせいで、ステージ上でセトリどうしようかなどと話すNEWSを見ながら何度目だろうかああ自担がいないなあと気が付いて、いまのNEWSが好きな気持ちとかつてはここにいた好きな人を惜しんでしまう気持ちとでぐちゃぐちゃだった。15周年。自担がいたのは何年なんだろうか。たった数年。10周年からたった5年。ものすごく、ただひたすらに、味の素スタジアムが楽しみです。NEWSちゃん、絶対に来てね、というからには呼んでください。たのむね。

 

身体ひとつ、あれば、なんでも。とおもう。ああまで楽器を持たないグループもいまどき珍しいんじゃないの、とときどきおもう。本当はちゃんと感想言いたいけれど、なんでかポエムしか生成されないのが悔しいのでポエムだけ生成してみている。楽しくて楽しくて、そうしてメンバーのことが可愛くて可愛くて仕方ない!みたいな立ち振る舞いをするNEWSのみなさんのそれが、たとえ幻影だったとしても幻影として存在していることにたぶん感謝するレベル。ちょーかわいいんだもんだって。えへへ。ほんとにかわいい。あほみたいにかっこいい演出ばりばり演出かとおもいきや、きゃっきゃかわいいカメラ独占芸チャンカパーナ見せられてどうせえっちゅうねん。えーんかわいい。「NEWSは完全に無重力状態です」を増田貴久が言うのだって最強におしゃれでしょう。

「メガロマニア」でシゲアキさんが急に不敵に笑って踊るの、めちゃくちゃよくなかったですか。「EROTICA」の寡黙な感じもめちゃくちゃよかったし正直めちゃくちゃ好みだったけど、「メガロマニア」にはとくに度肝を抜かれた。あとは「TWINKLE STAR」の肩! と友人に言われていたのに全然分からなくて、次の公演で「これか!」となったあの肩の動きとか、「AVALON」で桜を拾って吹く仕草のオシャレ野郎感に絶叫したのとか(大阪5日公演ではラストの挨拶でキャップを無駄にオシャレに取って挨拶していて絶叫した)、「U R not alone」で全力で歌い上げる姿とか、見ようと思っているわけでもないのにシゲアキさんから目が離せなくて、他のメンバー全然見られなかったのが心残り。ときどき視界に入るてごにゃがどえらい可愛い顔で笑ってて思わず「えっ!?」となったり、増田さんがこの世のすべてを慈しむかのような笑顔でこちら側に手を振ってきたり、小山さんに関してはソロで脱ぎ過ぎるのをもっと出し惜しめよ!!!なんであんなに脱ぎ散らかすねん!!!!!!と勝手にブチ切れたり誕生日の小山さんのことは忘れられないなあと思ったり(「誕生日ずらせば?」発言ちょー愛でたい)、もっと見られればと思うところはたしかにあるんだけれど、まあしょうがないね。焦点ひとつしかあわないし。

あとは、キャパの問題で年々厳しくなっていっているなか、知り合った年下の友人にコンサートにお誘いいただいて初めての会場に連れて行ってもらったりした、ありがたいなあとおもうし、うれしいなあとおもうけれど、やっぱりなによりたのしかった。うーん、たのしかったに尽きる。来年こそは京セラドームを埋めるNEWSが見たいね。全然知らない地方都市から各地に行くのわりと大変だったし金銭的にも負担は大きかったけれど、今後の人生を思うと慣れていかなきゃなあと思う、ので、がんばります。夏。夏まで。

 

 

「平成最後の夏」なんですってね。

すばるさんがいなくなって、NEWSが15周年を迎えて。そうかあ、平成も終わるようにいつだってどんな時代だって終わっていくんだもんな、と思えば、なんだか心が凪ぐ。ような気もするし絶望するような気もする。いつまでと我ながら馬鹿みたいに思うけれど、自担の脱退のことまだまだ思って泣き出したくなる日もある。音が一つ減ったり、するのを自担が実感するように、自担の声がしないなあと思ってしまう曲がある。「時間が解決する」というのはやっぱり正しくない、正しくは「これからの経験が解決してくれる」だし「解決しなくても生きていけるように心が整えられていく」だとおもう。かつての感傷を閉じ込めている分厚い蓋があってそれを完全に開けられるほど、いまのわたしには体力がなくて、それはたしかに時間のせいかもしれない。けれど、それは「解決」じゃない。でも、でもたしかに、たのしい。心の奥底に潜んでいる感傷を気遣いながら、交わらない世界線に絶望しながら諦めながら、それでも、わたしの好きな人たちがそれぞれ頑張ってそれぞれに仕事をして生きているのを知っているのがうれしい。同じ時代に生きている。わたしはそれを知っている。わたしの平成が終わるのなら彼らの平成も終わる。そうしていつか新しい年号にすっかり馴染んでしまったころ、平成最後の夏を思い出すことがあればわたしはなにを思うんだろうな。

それはともかくラストフレンズから10年ってやばくない? 

 

 

【追記】

お題「NEWS ARENA TOUR 2018 「EPCOTIA」宇宙旅行記」

素敵なお題があったので参加させていただくことにする。

あわせて最近読んだ小川洋子「口笛の上手な白雪姫」という短編集に収録されている「一つの歌を分け合う」という短編がめちゃくちゃ自分に刺さったのでどうしても言及したくなった。ので、追記として書きます。

レ・ミゼラブル」という舞台をテーマにした作品で、ざっくり説明すると、主人公の伯母が息子を亡くした悲しみを人知れずずっと抱えたままでいるうちに「レ・ミゼラブル」の主演役者のことを息子と思いこむようになり、主人公は息子(主演役者)の姿を観に行く伯母に連れられ、共に舞台を観劇することになる、というおはなし。伯母の姿を自分と重ねた、というと陳腐だけれど、陳腐なのだけれど読んでいてたまらなかった。

伯母は役者のことを息子だと思って見ているけれど、実際はもちろんそうではなく、けれど、それを誰かに咎められることもない。舞台のこちら側とあちら側。あちら側にも物語があり、こちら側にも物語がある。それらはけして交わったりしない、けれど、ときどきかすかに交じり合うときがある。

ここ数年ずっと「同じ星」という言葉の持つ解釈に悩まされてきた。もしかして、あちら側が「同じ星」を観るとき、こちらは「一つの歌を分け合」っていたのかもしれない、と思ってみたら、なんだか急に、わたしだけではないたくさんいるこちら側のひとたちの心境をさまざま考えてしまって胸がいっぱいになった。抱えている感情や事情、あちら側に向ける感情、なにからなにまでひとつずつそれぞれ違っているのかもしれないけれど、あの空間にいたとき、たしかにわたしたちは同じ一つの歌を分け合っていたんだろう。きっと。