さいきん考えていること/錦戸亮が好きです

全編頭のおかしいポエムです。各自固有名詞を読み換えてくれていいよ。 すべての話が錦戸亮に通じていくところを読むことができます。ツアーネタバレ的には曲名をひとつ書いちゃっているくらいで一切内容は伝わらないと思います。

 

 

 

 

 
錦戸亮以外にいる? いなくない?
この世に錦戸亮の顔をして錦戸亮を名乗る人間が、錦戸亮以外にいない限り、そうなればやっぱり当然、錦戸亮しかいないんですよ。
そんなことばかり考えています、最近ずっと。
 
 
「担当」という制度は、もしかするとオタクを(少なくともオタクの一人であるわたしを)思考停止に導く制度なんじゃないのか、と疑ってみたりしたけど、必要以上に迷うことなく「担当(推し)」のうちわを持つ日々は、大勢いるタレントのなかから彼以外を選ばない理由、彼だけを選ぶ理由をその都度自分に表明してから始める日々よりよっぽど楽チンだろうなと思う。ぜんぜん思考停止じゃなくて、ただの簡略化でしかない。
一度選んでしまえば自分の心が彼に触れるたびこの状態こそが正常だとしっくりくるようになるので、数えきれないほど惚れ直すことはあっても、自分がかつて彼を好きでいることを選んだのだ、ということをいつのまにか考えなくなっていく。新鮮なときめきに上書き保存されていって、彼を好きでいることが当たり前になっていく日々の中でいつしか、選ぶ余地や選んだ事実さえなかったんじゃないか、とまで思うようになった。
生まれたときから、自分の持つうちわには彼の名前が入っていて、自分はそれを持つことをいままで疑ったこともない、みたいな。わたしには彼が充てがわれていて、それはもうすでに決定していることで必然、だから、どうしてほかのひとは違う名前のうちわを持っているんだろう、どこでその違う名前のうちわを手にしたんだろう、わからないな、とさえ思ったりする。(ほかのひとも自分と同じような手順を踏んで手に入れた「必然」なんだろう、とは感覚的に理解していて、それはわたしにとって、出身地や血液型、星座のもつイメージと近い)
 
だから、わたしは、あの最強にかっこいい男に出逢ってしまったきっかけ自体を話すことができても、好きなところを指折り数えることはできても、もっと根本的なところでの「錦戸亮でなければいけない理由」(理由が人生において必要なことであるかどうかはさておいて)を話すことができないんですよ。だってわからない。でもときどき考えてしまう、考えたい、知りたい、でもわからないんです。
錦戸亮ちゃんのうちわを持つ理由?  錦戸亮ちゃんのうちわを持って生まれてきたから仕方ないんですよね、うちは代々世襲制なんです、ええ、ひいおばあちゃんの代から、そう、代々錦戸担で。
 
 
錦戸亮以外にいますか?  いるんでしょうね、わかります、あなたにとってはいるんでしょう、でもわたしにはいないんです。
むずかしいことは考えられない、顔を見てしまっているあいだは。
 
錦戸亮のこと、ご存知ですか? ああ、そうです、はい、あの顔がめちゃくちゃにかっこいい、あの、そうあの人です。そうなんですよ、めちゃくちゃかっこいい、ばかみたいにかっこいい、2019年トップクラスのかっこよさ、ほんっとにもう惚れ惚れするほどかっこよくて、とにかく媒体に映る顔のすべてがかっこいい、そしてなによりかわいい!、本気でそう思っているし、何度そう自分に言い聞かせても顔を見るたび新鮮にそのかっこよさに驚くくらい、と、わたしがこれだけ力説しても、どれだけの人にわたしが実感しているのと同程度の感動を伝えられるのかさっぱりわかりません。だって、わからないひとにはわからないんでしょう?  それがいいとか、悪いとか、いやだとか、そういうことじゃなくて、理屈としてはわかるけれど、錦戸亮の顔を見て心臓がぎゅっとなるこの感覚が万人に共通する感情じゃないってことがどうしても理解できません。むずかしい。
錦戸亮ちゃん、こうしてひとりの人間の語彙を奪ってどこまでもかっこよくなっていく34歳の日々、いかがお過ごしですか? お元気ですか? 相変わらずお顔の調子が留まるところを知らないですね、どこまで行きましたか?  さみしくなるから、あまり遠いところ、たとえば太陽系より外とかには行かないでね。
 
わたしも錦戸担としてこの世に生を受け自我を持つようになってからしばらく経つので、そろそろ成長しきったころだろうし、錦戸担として以外の自我も芽生えて運命にあてがわれたままの「担当」という存在に疑念を抱くようになり、そうして新しいなにかの刺激を受けて別の価値観に目覚めるんじゃないか、そういう頃合いなんじゃないか、みたいなことを、やっぱりちょっと考えるんですよ。
2019年、いろいろありますし、内外問わず楽しそうなことひやっとすることいろいろあるんですよだからやっぱりいろいろと影響してくる……と思うじゃないですか、わかってないわけじゃないんだけど、なんでか結果として目に見える形で影響が自分に及ばず、ただひたすら2019年も錦戸亮ちゃんのかっこよさにぶん殴られて続けている日々です。防戦一方。ぼこぼこにされ尽くされたところで、心臓を握りつぶされる日も近い。
でもね〜〜〜〜、正直に告白するとわたしは髭がないほうが好きだし、前髪も揃えて重めに作ってもらうほうが好き、身体は厚みがないほうがよくて肌は日に焼けずにいてくれるほうが好きです、好きなんですけど、好きなはずなんだけどな……?
好きになったころは青年だった、彼の加齢と共にわたしも年を重ねていてそのあいだに、いつのまにか「好み」というものさえ、彼に作り替えられてしまったんじゃないかとおもうよ。疑っています、非常に困惑しています。これじゃあ、好きになる一方じゃないですか、理不尽が過ぎる。
 
 
顔を見るだけで、あ~~~~~~~~!!!! と思うし、しんどいし、しあわせだし、一生見ていたいと思うし、静止画じゃなくて動いたりなんかした日にはもう一挙手一投足すべてに釘付けにさせられて、苦しい、恋じゃないならなんなんだっていうくらいに恋、これがきっと恋、恋じゃないならそういう病気。
恋の力によって成せる贔屓目で話すんですけど、今年の関ジャニ∞15周年のツアー「十五祭」の錦戸亮ちゃん、めちゃくちゃ踊るんですよ(これは贔屓目じゃなくて事実でした)。踊るところを見て確信しましたこれは恋です。
まあでも、贔屓目だなっておもう、「判断基準が彼、評価対象も彼」というのはなかなか、ほかのメンバーはたぶんもっと常から動いていてそういうパフォーマンスをしてきていて、それはまあそれで、こっちはこっちのそれで……なんだろうなというのは、なんとなく察しました。判断基準も評価対象も彼以外にいないので、まあ、いいんじゃないかと個人的には思っているけれど。
どんなに汗だくでもバテバテでも毎公演きっちり踊ってくれるのはうれしい、ときめく、惚れる!惚れてる!、大好き。あちらとこちらと大きく動くわけじゃなくてましてやそれが似合うような人でもない、ちょっと気だるげにさえ見える必要な動きを綺麗に必要なだけ――とはいえときどきそれ以外の動きも彼が思うままにしてみたりする、のがとてもよく似合う人、なんだけど、それのなにが今までと違うのかと問われればよくわからなくていままでもそうだったのかもしれない、今年のはただセトリの関係なのかもしれない、だとすれば、こちらの心持ちのせいかな、とにかくなんでか彼が動くさまを見ているだけで胸がいっぱいになる。なんだっていい、と思った、彼がステージ上でああして存在してくれているのなら。言葉に意味をもたらすのは身体なんだろうなと思った。
 
今年これだけ彼のこと、いまだかつてないかっこよさ!みたいにして騒ぎながら、そうはいってもどうせ去年だって変わらずかっこよかったはずだろうと考えています。去年の錦戸亮のことを軽んじているのでは? と自分を疑いたくなる気持ちもあるけれど、年々ブラッシュアップされているかっこよさと、わたしの価値観の変容がおなじスピードなんでしょう。去年の錦戸亮ちゃんは、やさしさとして言葉を尽くしてなにかを伝えるような、そんな「言葉にするかっこよさ」があった、今年はそれをすべて身体で体現しているような気がする。どんな言葉よりも、どんなに言葉を尽くしても、身体がもつ熱量にはかなわないのかもしれない、とおもうほど、だった。個人的に、ここ数年わたしがアイドルに対してそう思う頻度が増えてきていて、これは自分の身体のしょうもなさに起因しているのかなとも思っていたりする(運動全般が苦手です)。
言葉の真意だってしょうじきわからない、なにが嘘で、虚勢なのかも。そのときの「本当」がいつしか「本当」じゃなくなるかもしれない、他人の気持ちなんて実際にはわからなくて、「永遠」だって存在しない、それでも、ステージの上にはたまらないほど惹かれる身体が存在していて、同じ時間を共有している。そのことがなんでか分からないほどすごくうれしいな、と思うツアーだった。東京公演を残して。
 
 
「ひとつのうた」が大好きだった。2009年のコンサートが初めてだったので、すごく思い出に残っている。わたしも思いがけず遠くまで来たのかもしれないな、と思った。中学生だった自分が成人して社会人になって、それでも関ジャニ∞を好きで、あのころ右も左もわからないまま歌った「ひとつのうた」、なんにも考えなくても歌えるようになっていたことを実感して、胸がぎゅっとなった。わたしの青春は関ジャニ∞とともにありました、なんて、明るく言うほどの青春を過ごしてきたわけじゃない(学生時代はどちらかというと現実逃避の意味でのめりこんでいたようにも思う)ので、あまり自覚してこなかったけれど、思い返してみれば、本当にそうだった。いろんな友達と知り合って、遊んで、たしかにあれは青春だったなあ、といまになってわかる。そういう意味ではやっぱりいまもそうかもしれないね。
最初に、錦戸亮ちゃんを好きでいることを選んだ事実も忘れているような気がしている、みたいなことを言ったけれど、本当はわかっていて、好き、から派生すること、たとえば買うとか見るとか行くとか、そういうのを全部自分で選び続けてきたから(どんどん好きになっていって)、いまも好きでいるんだろうな、って。ばかみたいにずっと大好きだったんだろうな、そうだろうな、そうなんだろうな、やっぱりもうよくわからないかもしれない、どうしてこんなに好きなんだろうね。えへへ。いまが一番好きかもしれない、最強の実家。ときめき実家。実家のように落ち着く対錦戸亮ちゃんでしか発生しないこのドキドキ、この裏腹さ、想像してわかってほしい。
 
「実家」と表現するのが正しいのかわからないけれど、わたしは「実家」を愛していて、まあでも両親にとっては「建てた家」であって「実家」じゃないんですよ、でもわたしはあの家以外に帰るところ帰りたいところはなくて、それでもいつかぽろっと手放すことになる可能性がないわけじゃない、から、あの家が長いこと存続しますようにと祈るくらいしかできない。あの家が地元にあるから、どこへでも行ける。
錦戸亮ちゃんが好き、という感情を前提にして存在するような、出会えたような「好き」が私にはたくさんある。それは彼じゃ足りないということじゃなくて、彼をすきでいるうちに自分の感受性を信じて健やかにいろんな物事に触れられるようになった、ということなのかなとおもう。それがどれだけ細やかでも「好き」という感情がもたらすよろこびを、錦戸亮ちゃんを好きでいるあいだに知っていったのかもしれない、いやまあ、わたしの場合ぜったいにそう。錦戸亮ちゃんのこと好きだ、っておもうたび、自分の選んだ人生やそんな感じの選択のいろいろを褒めたくなる。わたしはわたしの好きなものを良く知っているね。
好きなものをそれぞれ信じて、好きだ~~~~と思いながら生きていきたい、そうして辿りつく最終地点が錦戸亮じゃなくても。かっこいい別れじゃなくても。わたしの「運命」はいつ違うひとを連れて来てくれるんだろう、さっぱりそんな気配がない分、その日が来ること少しだけ楽しみにしている自分もいる。わたしと錦戸亮というアイドルが迎える最後のステージはいつなんだろう、それもまたきっと「運命」なんでしょう、わたしが生まれるときにはすでに決定していたことなんでしょう? 
わたしは、自分の人生における「錦戸亮」という物語のことを愛しているんです。わたしの人生における錦戸亮、ほんとうにかっこいい、未来を約束してくれなくていい、縋って生きるようなこと絶対にしたくない、将来の自分がどうやって生きているのかまったく想像つかないから、けれど、この世に彼が生きているという事実が、わたしにはわたしの、彼には彼の未来があるという事実が、日々のわたしをいくらか支えてくれていて、同じ世に同じようにしてそれぞれ生きているんだもんなと想像して震えることになります。今日わたしがそうやって生きていることは、誰にも将来の自分にも否定することのできない、紛れもない事実だってこと覚えておきたいなとおもう。「恋」でしょう、これ。 恋だとしたら厄介すぎるけど、恋だと言われたらそうかもしれんとしっくりきてしまう。なんか、ほんとうになんなんだろ、見れば見るほどさいきんめちゃくちゃかっこいいよね、顔が。なんなんやろ、ほんまに。
 
 
結局なんでこんなにかっこいいんでしょう、わたしは「恋」のせいにしたけど、なんで、あんなに、いやほんとにわからん、なんで? 
えっ、だれかご存知でしたら教えてください、なんで錦戸亮あんなにかっこいいんですか? そして馬鹿みたいにかわいいのはどうして? 
 
 

ところで、生きてりゃいいことあるって!!!!!!!!!!!!!!!!!!! ほんまなんやな!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 長生きしよ!!!!!!!!!!!!! あと何十年と働いて慎ましく生きていこ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!