2016年夏/「SUMMER TIME」関ジャニ∞リサイタル
夏も、9月も、もう終わりますね。
今日は9月20日。リサイタル徳島から帰ってきて、これを書いています。
リサイタル初日に入った友人から「サマタイを踊る」という知らせを受けてから、1ヵ月半。いろんなレポを見ながら、ずっと混乱していたように思います。ひたすら、いろんなことを考えた、24時間テレビもあったし、いろいろ。考えて考えて、自分なりに「多分見たいものは見られない」と覚悟をして、9月16日からの3公演、リサイタルにはいりました。
帰りのバスのなかでもいろいろ考えて、実際に見たからこそ思うことがたくさんあって、レポを読んでいたときには「混乱」しかなかったのが、考えるうちに諦めもついてきて、いざ入って実際に目の当たりにしたら、すっきりしました。ようやく見られた。ようやく見られた、それだけで十分だと思えました。NEWSと錦戸亮のことについて、脱退から散々泣いてきたけれど、それでも、自分にとっての「正解」は自分にしか導き出せないのだとしたら、書くしかないと思った。ただ、このブログの解釈が、他のだれかに解釈を押し付けることにならないように、公開するのはオーラスが終わってからにしようと思います。言うまでもなく、ただの馬鹿なオタクの感想です。わたしが間違っているのは重々承知しています。それでも、あの日泣いた自分にけりをつけたいから。
そもそも、「SUMMER TIME」という曲が好き。あのダンスが好きだし、自担のパートが好きだし、「オーイエス」で目を合わせて笑う加藤さんと錦戸さんのアンプラグドが好きだった。4人になってからというもの、CMタイアップもあってか、夏ソングがみるみるうちに増えて、気が付けば、「渚のお姉サマー」「恋祭り」「NYARO」「チュムチュム」…「恋を知らない君へ」と、今までならサマタイを歌っていたであろう場面でも、他に歌える曲が増えたので歌われなくなっていて、いやーーーサマタイも聞きたいんだけどな!そろそろ!アレンジ無しのやつ!と思っていた。ら、まさか、錦戸亮が歌うとは。いやまあ、錦戸さんは「恋を知らない君へ」を歌えないんですけどね。
リサイタルでサマタイがどうして歌われるのか、説明しようとしても、リサイタル自体を説明することが難しいんですよね。簡単に言うと、「ジャニーズ夏(っぽい曲)メドレー」のなかの一曲です、「熱中症」というオチに向かうための。お察しですが、まともなメドレーじゃないです。終始笑うためのメドレー。それでも他のジャニーズの楽曲は、嵐とかキンキとかあとはSMAPとかの曲ばかりなので、NEWSをわざわざ歌うってことは、「わざわざ」なんだろうなという印象。イントロなしのサビから始まって、錦戸亮の「手招きしてる太陽~」のパートからそれぞれエイトがソロパートを歌う。最初のサビはきちんと全員踊るけれど、錦戸丸山すばる以外は途中からトロッコ移動。錦戸はまあ、メインに残って踊ったり、踊らなかったり、まるすばに便乗してふざけたり。16日はイヤモニがおかしかったのか、ステージ上手でスタッフと話していた。他の17日18日はまあ、踊っていると言えば踊っているし、踊っていないと言えば踊っていない、ような、そんな感じ。衣装は柄シャツをアンクル丈のジーンズにインしているスタイル。かわいい。
この、まるすばに便乗してふざけたり、っていうのをレポで見たときは本当に誰に対してでもなく、全面的に憎しみしかなかったんですよね。自分が入る公演がツアー終盤ということもあって、前半でふざけられるともう軌道修正もされないだろうから、どうなるのかと怖かった。そもそも、かつて掛け持ちしていたグループの歌を「わざわざ」歌うのに、ふざけるのか、ふざけてもいい曲だと思っているのか、と。歌い継いでいく側は、あれだけの覚悟を持って歌ってゆこうとしていたのに、抜けた側はグループ全員で「おふざけ」にするのかと。先日の少年倶楽部プレミアムで、錦戸が発した「嬉しい人もいるかもしれない」というような発言をほんのちょっと恨んでいたわたしにとって、夢にまで見た(そしてもう今後二度と見られない)大好きな歌を歌って踊る錦戸亮ちゃんを見られる喜びと、「おふざけ」に利用されることへの嫌悪で、ただただ混乱していた。最初は単純に「もう一度見られるのだ」と嬉しかったし、関ジャニ∞がふざけるのなんて今年に始まったことではないので別段気にしていなかったけれど、わたしは、NEWSとしての錦戸亮は死んだけれど楽曲だけでも生かしてくれるために歌ってくれるものだと勘違いしていたようだった。そういう期待を最初に持ってしまっていたのがよくなかった。公演を重ねていくうちに様々なレポが流れてきて、当然と言えば当然で、気が付かなかった方がおかしいのだと今では思えるけれど「ファンに喜んでもらうため」にあの曲を選んだのかと思い至って、さらにはふざけることで喜んでもらえる(と思っている)、そのことに気が付いたときは相当ショックを受けた。しかも、喜んでもらうためという理由だったとしても、自担にとって「踊る/踊らない」はさしたることじゃないんだ、とも気が付いて落ち込んだ。「再現」ではない、ということを、思い知らされた。一番切ないことだった。
それこそ、こっちはまだ「終わってない」「解決してもらってない」と思っているわけで、「終わってない」と思うからこそ自担がサマタイ踊ることにもなにかを探すわけで。探すことが間違っていると賢い人なら思えるのかもしれないけれど、脱退以後ずっと、いつか遠い未来にでも彼が脱退に言及して、彼の手ですっぱり終わらせてくれることを期待してしまっていたファンにとっては、酷なことだと思っていてもいいですよね。
だから、このリサイタルでのサマタイが、その、彼の手によって終わらせてくれることなのだ、と思うことにしました。あのサマタイは、私の知っている「SUMMER TIME」じゃなかった。NEWSと関ジャニ∞という違い以上に。錦戸亮ですら。当然だろ、と思われる方は思われるかもしれないけれど、ろくに言及のない5年では時間の経過すらよくわからなかった。エンドレスサマーのように、あの夏に、いつでも戻れるものだと思っていた。てっきり、扉は繋がっているものだと。
錦戸亮ちゃんがもう、NEWSとしての魔力を持っていないところを見た。
同じ曲だからこそ、ありありと分かってしまったのだろうと思う。私が最後に「NEWSの錦戸亮」を見たのが、2010年9月18日。徳島公演最終日の18日が、あれからちょうど6年。前髪はないわ、髭は剃らないままだわ、って多分6年前じゃ信じられない。6年前のビジュアルが一番好きだというのは、まあ、差し引いても。
たまたま、この夏の間に、「グレート・ギャツビー」の原作本を読み、ハリウッドでの映画「華麗なるギャツビー」、そして内博貴くんがギャツビーを演じた舞台を観た。作中で何度も、5年前の恋人とよりを戻そうと奮起するギャツビーに友人ニックが「過去は取り戻せない」と言い聞かせる。ギャツビーはそれを受け入れず、5年前に戻れると信じてやまない。過去は取り戻せない。
でも、過去は消せないし、消えないし、だからこそ錦戸亮は自分のパートがあるサマタイの自分のパートを歌える。けれども、それでももうNEWSではない。帰りのバスで何故か「Distance」を聴きながら号泣した。「恋を知らない君へ」を歌えない、「NYARO」も「恋祭り」も「渚のお姉サマー」も「チャンカパーナ」も「フルスイング」も。「SUMMER TIME」ですら、もう。
4人の新境地「恋を知らない君へ」で小山さんが「この悲しみも過ぎてくのかな」と歌っていて、あの脱退発表時に「時間にだけは解決させてたまるか」と強く思っていた自分を思い出した。自担に解決済みかのように扱われているなか、所詮傍観者でしかないファンの自分だけが未解決のまま抱えていることに疲れてしまっていて、そんな2016年に「共に過ごした夏はもう二度と戻らない」とNEWSが歌うので、それでもいいかな、と思った。そう考えながら、なんで泣いているのか、どうしてまだ泣けるのか、分からないけれど。現状に満足しきっているわけではないけれど、それでも不満ばかりじゃない、それなのに「悔しい」と考えてしまう。何が悔しいのか分からないけれど「悔しい」と泣いている自分がいる。
脱退に際して、自担から幻滅させるような言葉はもらえなかったけれど、いつか言及してくれる日が来るのかは分からないけれど、絶対に「言わないこと」が最善だとは思わないけれど、それでも、これも自担によるひとつの終焉のかたちかな、と思う。「終わっていた」ところを観られてよかった。
なんでこんなに「NEWSの錦戸亮」に執着するのだろう。まあ、「錦戸亮」が好きだったから、という理由に相違ないのですが。錦戸さんが好きなのに、エイトもNEWSも選ぶ必要なんてなかった。他に理由があるとすれば、わたしが肉体から離れて語られる物語が好きだから、ですかね。「NEWSの錦戸亮」の一人の人間とは思えない、「錦戸亮」そのままが「関ジャニ∞の錦戸亮」なら、当然そちらも好きだけれど、一人の人間とは思えないなにか特別なものを纏っているようなところも好きだった。NEWSというグループにも言えるけれど。アイドルとは、ああいう姿を言うんだろうとも思う。
どうせ選ばれないグループを「嫌い」になれたらどれほど楽だったのだろう、と思うときがある、いまだに。でも、それでも脱退以前に、以後にも、もしもNEWSのことを嫌いになっていたら、自分の感情の整理のためとはいえ知ろうという気持ちを捨てていたら、この終焉に自分はたどり着けていなかっただろうという思いがある。思いがけずボーナスをもらったような気分。
自担のいないグループ、自担が選んだグループ、どちらも、あれからずっと応援してきたからこそ、こうしていま、穏やかな気持ちで秋を迎えられるのかもしれない。
あの6月の少年倶楽部プレミアムは、やっぱり、関ジャニ∞が許されるための企画ではなくてNEWSがもう「掛け持ち(脱退)」にしがらみを残していないことのアピールを行うための企画だったのかな、と思う。シゲアキさんのチカラウタも、そうだと思った。シゲアキさんは泣いてしまったけれど、あれは「NEWS」としての話ではなくて、シゲアキさんが「加藤シゲアキ」という人間を語る上で錦戸亮の存在、あの「深夜高速」という歌が欠かせないだけであって、引きずっているのはグループとは少し違うんだろうと思う。小山さんの、関ジャニ∞とああいう形で共演が出来てNEWSとしての次の段階に、という補足が、小山さんの、シゲアキさんへのプライドのような気がしてとてもうれしかった。うちの加藤を勘違いされたら困る、みたいな。「最善じゃない」と言う人間、それでも現状が一番だとファンに胸を張る人間、それぞれがバランスよく存在しているからうまく成り立つのかもしれない、コヤシゲってそういうところ…と、おもむろに「尊い…」と拝んでしまいそうだった。シンメなのに解釈違いを起こしていて、加藤さんの見ていた「錦戸亮」が多分、わたしも好きなんだと思う。いろいろ話題になった24時間テレビだったけれど、よかった。シゲアキさんの「人生で一番忙しくて熱い夏にしようという覚悟をしました」というコメントが、2016年夏を象徴しているような気がした。
良い夏だった。
良い夏だった、と思う。次の夏も、そうでありますように。
と、思ったら、「夏の記憶」って殺す気かよ、という少年倶楽部プレミアム9月21日放送回。恋祭り→エンドレス・サマー→秋の空 というなんとも形容しがたいメドレー。エモさが人を殺す夏です。
秋が来ますね。