錦戸亮のファンとして/2019.09.30

言いたいことはただひとつ、明日も明後日も笑っていてください、頼むからそういう風にして生きていてほしいと祈って暮らすことをゆるしてください、ということだけ。これはひとつと数えていいのか?

 

本当はブログを書くつもりもなかったんだけれど、いざ今日を迎えてみたら、頭から少しも離れてくれないことを思い知って茫然とした。脱退と退所を知った日から、今日まで、ずうっと覚悟をすることを繰り返して、もう彼がジャニーズとして立つステージがないことを理解しようとして、さらには自分に末日が期限だと言い聞かせてきて、わたしはそれでも「ファン」として区切りをつけないことを選んだ。ツイッターのアカウントも変えない、ブログも、彼のこと「自担」と呼ぶことも、なにもかも変えずにこれからも好きでいてみよう、と決めた。名残惜しかったというものあるし、ちょっとだけ悔しかったのもある、関ジャニ∞との別れがつらかったのもある、けれど、それよりも、わたしはこれからも彼を好きでいることに変わりはない、と確信したからだった。呼び方や在り方が変わるとしても、それは彼がもう一度こちらに姿を見せてくれてなにかが始まってからだ、とおもった。わたしが決めるのはいまじゃないのかもしれない、と。

だから、今日の日だって、長い目でみれば人生のうちのただの一日でしかない、だってもうジャニーズとして関ジャニ∞として活動をすることはすでに終えているのだから、と、さして特別には受け止めていなかった。入所日をお祝いするように、「その日」じゃなくて「その日が在ること」「その日からのすべて」に意味があるように。そういう日だと自分のなかで受け入れていた。媒体のなにかを残すこともしていません。6人が5人に変わろうとも、こだわらずにいよう、いたい、とおもって。

 

でも、なんかもう、それはそうとして、それはそうなんだけれど、何とも言えない気持ちになる。たまらなくさみしい。泣き出したくなる気持ちがずっとあって、通勤途中でどんな歌を聴いても錦戸亮ちゃんのことを思い出して仕方がない。好きになって10年余り、心の一番大きいところを占めてきた、だいすきなひと。彼以外に選びようがなくて、まずなにより彼をいちばんに選んできて、そうしていられることがなにより幸福で、たのしくて、たまらなかった。ずうっと大好きだった。

ここから先の未来を憂う気持ちはひとつもない、錦戸亮錦戸亮のために選んでいくものごとのすべては錦戸亮にとって正しい選択だ、と知っているし、信頼しているから。この脱退・退所だって、そう思う気持ちは変わらない。想像もできなかった未来を見せてくれるかもしれない、というわくわくも確かにある、途轍もない未来の可能性を思い知らされているような気もする。それを選ぶのが錦戸亮自身だと思うと、なおさら。たくさん休んでほしい、そうして、いちばん自身が幸せになれる道を選んでいてほしい、それがどんなものであっても。そう心の底から願っていられる時間は特別で、そう願っていることを、100%の敬愛だと伝えたい。知ってる? 知らんやろ、それでいいよ。

けれど、さみしいなあ、とおもう。そうなんだよなあ、さみしい。そっちはどうですか? 教えてくれなくてもいいよ、しょうがないね。

 

老いていくあなたが何十年先もジャニーズとして生きていくのもかっこいいだろうなと思っていた、そういう未来も夢見ていた。いつかどこかに行ってしまうかもしれない、そういうときの選択を甘さで誤らないひとだろうと信頼して、同時に怯えて、それでも、関ジャニ∞としてメンバーと笑いながら老いていく未来だって素晴らしいだろうとそれは彼だって同じように思っているだろうと夢想していた。なんでずっとジャニーズでいてくれているのかわからないけれど、できるならずうっとそのままいてほしいなあ、案外ずっといるのかもしれないなあ、と思っていたのだって本音だ。

あの才能がジャニーズのなかで生きているの、わたしはたまらなく好きだった。「正統派イケメン」として扱われながら、異端の関ジャニ∞に所属してそのなかでもマイペースを貫く彼のアイドルとしての在り方は、まっすぐともいびつともいえず、なんともおもしろかった。だいすきだった。思い返せば限りなくて、器用に立ち振る舞えない寂しさにやきもきしたこともあるけれど、それだって、全部「好き」に起因していた、選ぶ余地もなく惹かれていた。世間のことは知らないけれど、わたしにとっては代わりのない唯一無二の特別だった。一番に錦戸亮を選び続ける人生のたのしさ、わかるか!? おまえにわかるかおまえに、わかるか、最高やぞ、最高、泣き出したくなるような最高を知っていますか? わたしはそれを知っているんですよ。この最高を知っている幸福感たるや、なににも勝るものはない、錦戸亮、あなたです。他のだれでもない、錦戸亮ちゃん。好きになってからのわたしを生かしていたのは紛れもなく錦戸亮だった、と、わたしだけが知っている、わたししか分からない、こんなに感謝しているのに。こんなにも背中を押してもらっているのに。人生の岐路でたくさんの勇気をもらってきたのに。かけがえのない出会いをたくさんもたらしてくれたこと言葉じゃ言い尽くせないくらい感謝しているのに。感謝ばかり。結局感謝しか残っていない。あまりにも大きく自分の人生のなかにあったものが「ジャニーズ」の錦戸亮だったから、ああ、全部が終わっていくのか、ひとつの時代として過去になり、完結するのか、とおもうとさすがに混乱してしまう。あまりにも大きな存在だった。指針だった。

 

どんな別れもつらい、たとえそれが希望に満ちたものでも。そうでなくても。どんな風に選ばれたものだとしても。どんな風に選ばれたものか知ることがなくても。

錦戸亮ちゃんがどうしてこの決断をしたのか、はっきり言葉で知らないけれどはっきり言葉で知らなくても、どうだっていい、とおもう。わかるような気もするし、少しもわかりたくない気持ちもある。どうせわたしには分からないでしょう。それでいい。ただしばらく勝手にさみしがるのは、許してほしい。辞めないで、とは言わない。いえない。いいたくない。やっと終わった、終えられた、と思う気持ちもある。いつか来るであろうお別れを想像して悲しくなっていた、のが、現実に起これば想像をする余地だってなくなる。事実を粛々と受け止めるだけに変わる。そういうさまざまな感情の狭間にいまはいるのかもしれないね。哀しいし、さみしいけれど、ほっとしている。しょうじき。これでもう、脱退を経験しなくていいんだものね、わたしも、あなたも。あんなに胸が千切れるような寂しさ、きっとこれ以上ない、ほっとしています。

 

 

わたしの人生がどんなものであっても彼にはひとつも影響を及ぼさない、というのが、わたしが生きていくうえでのひとつの拠り所だった。これからもきっとそうだとおもう。わたしがどれだけ平凡でも人並み以下でもしょうもなくても、変わらず錦戸亮はずっと眩しい。わたしが日々、どれだけしょうもない失敗をしても、人にやさしくできなくても、ちょっとだけ頑張れなくても、それでもあのまばゆい錦戸亮にはこれっぽちも影響を及ぼさない、だから、わたしはどれだけみっともなくても毎日必死に生きていける。

日々に悩殺されていくなかで自分の足りなさを実感するたび、あなたがどれだけ眩しかったのか、どれほどわたしの目に眩しく輝き映っていたのか、思い知らせてやって、このわたしの抱えるたまらなさを、幸福の指数として彼に捧げることができたらいいのに、と切に願う。こうして打ち付けていると祈りのような言葉ばかり浮かんで、結局のところわたしが彼に望んでいたことは、髭を剃れでも前髪がほしいでも鍛えないでほしい日焼けしないでほしい、でもなくて(言うけど全然言うけど)、一生しあわせでいてほしい、しあわせだと思えるような暮らしをしていてほしい、なのかもしれない。頑張った分だけ頑張りが報われていてほしい。世界に正しく優しくされていてほしい。幸せになる選択だけを重ねていってほしい。そういう規模の大きいことを祈る一方で、そう願えば願うほど、死ぬまで関ジャニ∞でいてほしかった、みんなで笑って過ごす錦戸亮ちゃんを永遠に見ていたかったというわがままのような願いを、二度と口にできず、ぐっと飲み込んで堪えることしかできなくなっていくんでしょう。相反することになった願いがかなしい。かなしいけれど、かなしいだけじゃない。しょうがない。ほんとうは心のどこかでずっとわかっていたことだった、永遠なんてない。永遠はないかもしれないけれど、過去だってなくならないよ、永遠がないように、ずっと変わらず楽しかった過去がある。そう言い聞かせて生きるほかない、ジャニーズとしての日々が過去になるこのときをファンとして迎えることができて、ほっとしています。ファンとしてのわたしは、やりたいことは全部やってきたなあ、とそのあたりは案外やりきった気持ちで今日を迎えているけれどそっちはどうですか、もちろん教えてくれなくて結構です。でももし教えてくれるならいつでも聞きたいです。

 

たのしい日々をありがとう、ほんとうにたのしかった!

明日からも楽しく生きようね!!!!!!!!!