いつでも「永遠」を探している/2019年9月から2年 経つので

心身ともに健やかでいることがたやすくないここ最近ですが、いかがお過ごしでいらっしゃいますか。

 

さて、2019年9月から2年ですね。

いま2年前のことで思い出すのは、嫌な予感がして職場のトイレでメールを読んだあと仕事に戻るときに見えた窓の向こうがいつも通りきれいに晴れていたこととか、退勤するときは日が暮れていて、でもそのまま家に帰ることができなくて車で30分くらいかかるスタバにコーヒー買いに行って無駄にぐるぐる運転したこととか、週末に2時間くらい電車に乗ったとき不意に馬鹿みたいに泣いたこととか。そういう断片的な光景ばかり。過去のツイートを読み返せば違うのかもしれないけれど、あえて今はそれをせずにこれを書いています。何を考えていたのか、今となっては鮮明に思い出せないなと思う反面、いまさら思い出したくないと深く考え込むことを避けていることに自覚的でいたり、しています。終わったんだからしょうがない、ぜんぶ過去のこと、と思えばそれでもう、そうだねと言い聞かせる以外に何ができるのかわからない。

この時期の夜の風の匂いが死ぬほどつらい。帰りたい。終電間際の新幹線を降りたときの匂いじゃない? 胸いっぱいで会場出て駅まで歩くときの匂いじゃない? 夜行バスの休憩で降りるSAの匂いじゃない? ご飯食べたあとコンビニに寄ってホテルに戻るときの匂いじゃない? 楽しかったな。戻れるのなら戻りたい。でも、本当に戻りたいのかな。いや、戻れるのならわたしはきっと戻るだろうな。多分。いや、どうだろ。決めきれないけれどそんな感じ。でも、何かを選ぶなら、いまのここがやっぱりいいかもしれない、ちょっとだけ本気で戻れるなら戻りたいなって思ういまが。

2年経って思うのは、本当に楽しい日々だった、ということ。これから先の未来も、そういう過去からできているんだと思えば、救われるような諦めるしかないような、そういう感覚です。夏にはいっぱい思い出があるなあ、暑いの大っ嫌いだし汗かいて仕方ないのやだし熱中症対策とかでドリンク多めに持参するコンサート結構キツかったけど、ステイホームの環境下ではそれさえ遠い過去のような気がして、余計に寂しく感じますね。終わっていく夏に感傷的になるのがやめられないのは、そういう風にして過ごしてきた年月のせいか、8月のすべてを捧げたことがあるからかな。去年の8月のファンミも嬉しかったな。過去を、楽しかった、と振り返って思える環境にいられたこと、いま素直にそう思える環境にいること、どれも恵まれているんだろうなと思う。

正直、よくよく思い返せば、自担に対する許せないと思うような他人の言動を目にすることもままあったよな、と思う。当時は本当に理解できなくて許せなくて、まともに傷ついて、うんざりしていたけれど、良くも悪くもわたし自身の情報収集にかける時間が減ったことによって、今はそれらから距離を置くことができているので、そういうの忘れてたな、とこないだちょっとした記事を見かけて思い出した。あれ本当になんなんだろう。結局わからないままだった。どっちが正しいとかじゃないっていうのはわかるんだけれど、わたしには到底理解できないことばかりだった、どっちが正しいとかじゃないって言いつつ、内心では はあ? と思ってはいるけれど。でも実際どうなんだろと落ち込んだり強がったりしながら、それでも、わたしが必要としていたのは、世論ではなく、世間のイメージでもなく、好きな歌と、彼に抱く感情が揺れ動くのを実感すること、だけだった、と初心を思い出した。関ジャニ∞というグループに対しても、過去に対しても。そういう感じで、結局好きだったんだな、と素直に思えるようになった。だからこそ、そればっかりじゃないにしても、もう二度とあんなふうに言われるところにいたくないな、というのも正直ある。独立してからのいくつかのステージを見て、言わなくてもわかる、言われなくてもわかるし、言えないのにわかってくれている、みたいにして、振舞ってくれるステージを知ってしまって、これが盲目やファンの欲目であったとしても、それはそれでいいんじゃないかな、とさえ思うようになった。たとえば、相手が立って一つの方向を見ていたとして、周りもよく見ろと揶揄するんじゃなくて、そのまま並んで何が見たいんやろって遠くまで見ようとしてみるほうが落ち着くことだってあるでしょう。そういうふうにいて欲しいと思うこと、そういうふうにしていたいと思うこと、それらが許されてもいいんじゃないかなと思って、そうしてみています。わたしがそうしたいだけだし。

半年くらい前、Apple Musicに加入したらiTunesに入れている曲が全部いつでもそのまま聴けるようになった。へーと思いつつ、月額980円でなんでも聴けるのすげーと思って、最近好きでいるアーティストの曲を聴いたりドラマとかアニメの主題歌だけ聞いたりB'zのサブスク解禁に歓喜したりしてたんですが、改めて自分の曲リストを見てみると、こんなにあるのかってくらい関ジャニ∞の曲が入ってて、そのどれもに思い出があって、思い入れがあって、知っている声ばかりが聞こえて、わたしは確かに彼らの歌を聴いて生きていたんだった、と当たり前のことをまた思い出した。思い返すとしんどいことだってあるけど、そうじゃないことだってもちろんあって、でもわりと普段はどれも忘れてしまっているなと気がつくたび、どんどん過去になっていくような寂しさがある。

あれから名前だけ知ってたコンテンツに触れては「こんなに面白いものがこの世に…!? なぜ自分は知らずにいままで…」と思うことが何度かあって、その度に、いままで脇目もふらずにエイトのことが好きだったんだからしかたないと項垂れるばかりです。正確にはNEWSもずっと好きでいるので脇目はふっているんだけれど、関ジャニ∞とNEWSなんていうのは右目と左目くらいの距離感ですよね。永遠を信じて、7人と4人の未来を祈るようにして暮らしていたわたしの青春はもう戻らないものだし、彼らのかたちもそう、けれど、過去を懐かしめるのは数年の盲目さと当時の執念によるものだと思えば、それはそれで愛おしいものだし、そういうところで培ったものを持ちながら初めて見聞きするコンテンツは、自分にとって新しくて、そういう経験があるからこそ楽しめたりするし、そうじゃなくても、じゃあ自分がいままで知らなかっただけで楽しいことってこの世に山ほどあるんだろうなと救われたりする。するんだけど、その上で、選べるならわたしはあの楽しさを選んでいたいなってやっぱり思う。普段より多い荷物を持って、友人たちと立ち話したいな。分かり合えないSNSを呪いながら、分かり合えるときめきを認め合っていたいな。少しずつ変わっていくことを、認めているけれど、理解しているけれど、帰りたいのはああいう熱量だということもきちんと理解した上で、未知のときめき、懐かしいときめき、新しいときめき、さまざまな自分の心を揺り動かすものに、あっさり流されていこうと思う。

何が好きとか、誰が好きとか、誰のファンとか、明言できなくて。誰担とか、誰推しとか、担降りとか、いまのわたしにはできないことだなあと思う。ほんのちょっと、担降りブログとか書く日が来るのかな、書きたくなる日が来るのかな、降りるとしたら誰なんだろ、とこっそり楽しみにしていたけれど、もしかしたら来ないのかもしれないな。いまの関ジャニ∞からは降りていると言うのが正しいと思うんだけど、いやそりゃ好きな人が脱退してるし、脱退した人を好きな目線から言えることってあんまりないな、と意識して言及することを避けている部分はある、ので、それは担降りと呼べるのかと考えると、わたしの想定する担降りとはちょっと違うような気がする。傍目から見て変わったところはあるのかもしれないけれど、何がなくても胸のうちでずっと好きでいられる人をわたしはいま好きでいるんだと思うと、最高に幸せだなって思う。錦戸亮ちゃんが好きだな。それ以外何にもわからない。これからも息をするように好きでいられたらいいな。何が好きとか、どこが好きとか、こうだから好きとか、全部もう遠いところに置いてきてしまったような気がする。いま好きだなと思う気持ちを頼りに、行けるところまで彼を好きでいたい。錦戸亮ちゃんの他にも好きな人や好きな歌がたくさんあるけれど、でも、錦戸亮ちゃんが好きなんだなって思う瞬間は他に代えられるものじゃない、と何度だって痛感する。2年前のこの日からずっと、好きだという気持ちごと大切にしていられるような感じがしていて、大変ありがたく感じております。叶わなかった永遠を、望んだ気持ちを手放すわけじゃないけれどもう戻らなくて、叶わなかったからって望んだ日々ごと死ぬわけじゃないんだな、みたいな。ひとりで歌う錦戸亮ちゃんがもたらしてくれるものの豊かさを、知れてよかった。知ることのできる人生でよかった。それはそうと、何かが更新されるたび、顔が好きだと言う気持ちが新鮮に爆発するのですごい。わたしの問題なのか、そちらの問題なのか、わかんないけど。わたしの今世、錦戸亮ちゃんに出会えた人生だということを噛み締めて明日からも、なんとかやっていきたいと思っています。終わり。

 

 

 

ずっと「永遠」のことばかり考えているような気がしてる。永遠というモチーフにばかり惹かれてしまう。「永遠なんてない」と知ったときから、余計に「永遠」のことが特別に感じられてしかたない。あ、永遠だ、と曲を聴きながら歌詞をなぞったり、漫画のセリフや描写に目を奪われたり。「永遠」が叶わなくたって過去や祈りが損なわれるわけじゃないって知って安心したのかな。永遠が嘘になっていく瞬間の痛さをもう一度味わいたいのかな。見届けたくてしかたないのかな。そういう文化で育ったんかな。そんなわけで、よりにもよって、まじかと思うんだけど、アイドリッシュセブンにどハマりした。一年前くらいに。

わたしが、錦戸亮の脱退(二度目)を経験して自分で決めたことが一つだけあって「ユニット曲のないコンビのことを好きにならない」だったんだけど、どう考えてもそこじゃないだろと、我ながら反省してる。ユニット曲あったら好きになってもいいんか、そうじゃなくない? 終わらないもの、終わるとしてもそうじゃない感じのものを好きになるべきだったんだよ。アイドルというジャンルじゃ不可能なことだなと少し考えればわかる。手遅れ。

ずっといつでも面白い物語が読みたいという欲望があって、ちょうど色々あったころに勧められていたの思い出して読んだら、あっけないくらい簡単にやられてしまった。最初にアプリをダウンロードしたのは2020年6月末だったんだけど、冒頭のバスケについていけなくて(4人が3人になったころでさすがに気が滅入っていたので、というか気が滅入っていたので読んでみようかなと思ったんだけど本当は)放置してて、8月下旬くらいに無料77連引こうとしてようやく開いたのとアニメが再開するからっていうので読み始めて、9月10日には2部まで読み終わって、9月13日には3部読み終わったって報告してるログが残ってた。4部はとにかく続きが読みたくて徹夜して読んだ記憶があるなと思ってログで確認したら9月17日には読み終わっていたようです。これらをリアルタイムで読んでいた人たちの心境を想像して絶望した。こわすぎ。会社でも昼休みに読んでたんだけど、4部のカフェで大集合するシーンを昼休みに読んでいて、あまりにもおかしくて震えて笑ってたら、正面に座っていた先輩にアクリル板越しに「どうした?」と怪訝な顔されて、簡単に説明できるようなものでもなくて、でも面白さを伝えてくて説明しようとしたけどできなかったことが、個人的に面白くてよく覚えてる。転勤してしまったので、わたしがまだ毎日ゲームにログインしていることをあの先輩は知らない。

何とは言わないけど、わたしが好きだった長いこと7人組だったアイドルと空気感が似ていて、いや似てるでしょ、似てるからなんだって感じだけど、あ〜〜〜〜こういう、こういう、身内にしか通用しないような距離感のおかしいわちゃわちゃが精神に栄養素として必要だわ、とたびたび放心した。お腹がよじれるくらい笑うシーンもあれば、二の句も告げないようなシリアスなシーンもあって、というか、基本的に抱えるものはみんな重いんだけどだからといってずっと鬱々として生きていくことしかできないわけじゃない、と、知らされるような出会いが生きていればあるのだと、思ったら、なにを言えばいいのか分からなくて放心したりもした。当時は感想を抱く間もなく最新分まで読み切って、アニメに合流したんだと思う。音ゲー得意じゃないので絶対やらんと言い張っていたし、今でもできるわけないやろとブチ切れているけれど、それはそれとして、アイドリッシュセブンちょーーーおもしろいな。すごい。事実は小説よりも奇なり、と言うけれど、小説や作られた物語に存在するものの繊細さというか、作られた物語にこそ宿る幼気な祈りのようなもの、ひりつくような感覚のものは確かに存在していて、計算づくなのだとすればその計算式に敬意を払いたくなるような、圧倒さに打ちのめされるたまらなさを思い知った。アイドルに永遠がないってこと、本編で何度も何度も表現される。いろんな永遠の、アイドルの終わりの可能性を示唆されて、たまらなくなる。終わりはかならずやってくるんだろうと皆が知っていて、それでも、それが少しでも遠ければと思う瞬間に宿る永遠がいちばん好きだな、と思ったりする。

ユッケ on Twitter: "わたしはB'z「RUN」の「時の流れは妙におかしなもので 血よりも濃いものを作ることがあるね」「人間なんて誰だって とてもふつうで 出会いはどれだって特別だろう」の歌詞が特別好きなんだけど さいきんIDOLiSH7見てるとこの歌思い出すようになった"

いつでもB'zの歌のこと思い出す。どのジャンルの好きな人に対しても思うようなこと、同時に関ジャニ∞の「無限大」も思い出す。「出会えた事が嬉しくてなんだか涙が溢れてく」人生で一番の喜びって、わたしは何か知っているんですけど、好きなアーティストが好きな歌を歌ってくれること、なんですよね。昔の好きな歌をいま歌ってくれるとか、あんなの、人生で一番嬉しいことのひとつだと思う。叶ったり叶わなかったりするよね。だからこそ。

好きになるとしたら二階堂大和さんかな、と勧められたときに言われたんだけど(わかる)、あっさりリスポの一織くんを引いてしまったことでころっと堕ちた。若干、関ジャニ∞「元気が出るsong」のときみたいな気配を感じてる。笑うなこっちは本気で願っとんやぞみたいな。こわ。ちょうど本編4部まで読み終わって反芻しているところにダンスマカブルがあったので余計にわたしが一織くんに対する「永遠」を拗らせたのかもしれない。やだあ。リスポ一織くんのカード、伝わるか分からないけど、ESCORTのMVのシゲアキさんみが強くて、わ、と思った。それにしても、わたしの決め事の「ユニット曲がないコンビにははまらない」をここでこそ適用させるべきだと思ったんだけど、いやおかしい、ど沼、おかしい、ユニット曲あればいいってもんじゃない、来るか分からないユニット曲を待つのは来なかったときを思うとつらくて耐えられないけど、あればいいってもんでもなくない? とも思うよ。あのユニット曲があるグループ怖いやろ。もう同じようなことにはなりたくない。ど沼にははまらん。決意。ユニット曲名は伏せさせていただきます。特定のコンビ萌えはしないと誓いたい。ど沼にははまらん。適度な距離を保って好きでいたい。終わりがあると知っていることで、適度な距離感を保って好きでいられるのかもしれないので。全方位可愛い。言い尽くせない。もう遅いと思うけど。ちょうど先週放送だったアニメ3期の9話終盤の和泉一織くんのセリフがあまりにも胸に刺さって、これはもう、こういうものを愛するしかないのだと諦めなきゃいけないかもしれない。永遠がないことはっきりと思い知っても、永遠の先の未来も案外悪くないことを知っていても、それでも、どうしたって永遠を信じていたいし、叶えばいいのにと思ってしまう。いまだに本心では性懲りもなく、永遠を信じて生きていきたいと願っているのかもしれないね。