関ジャニ∞の元気が出るLIVE‼ 東京公演最終日に行ってきました

 

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 一週間ぶりです。12月20日の東京公演に行ってきました。今回は夜行バスに乗ってはるばる。夜行バスと飛行機のどちらが色々な意味でしんどいのだろう、と不毛なことを考えていたら寝ていました。そして、過去記事を貼るのだから、なんらか比較させたいんだろうなと思ってもらえるかと思うのですが、まさしくそうです。

 札幌公演に入った人が口をそろえて「東京楽しい」と言っていて、いやいやマジかよ、と半信半疑だった3日間。セトリの変更点も把握してました。でもだって、冒頭の曲は変わってないんでしょう? だったら、とか思っていたわたしが東京ドームで死にました。 めちゃくちゃ楽しかったです……びっくりした。

札幌公演のなにが(わたしにとって)だめだったのか

 分からなくなりました。分からなくなると思ったから、どうせこれ全部ツアー終わるころには見当違いなこと書いたことを反省するだろうなって思いながらも前回のブログを慌てて書いたんです。それが、自分的二公演目で、あっさりその通りになってしまった。東京という土地の持つエネルギー凄い。大勢の人が行くのに疲れないからなのかな(適当)。わたしは感じなかったのですが、札幌公演は毎年わりと静かなんだそうで。確かに、初日でこっちもあっちも緊張しているだろうし、付き添いの人も多いだろうし、たしかに、と今思えばわたしの前の座席だって結局最後まで空席だったし、と。にしてもなんだったんだろう。なにがだめだったんだろう、どうしてだめだと思ったんだろう。思い出せない。あとどうでもいいんですけど、札幌ドームではスタンド中腹でコートをさっさと脱いだ覚えがあるんですが、東京ドームの天井で(アリーナに入った去年も寒かった)公演中ずっとコートが脱げませんでした。札幌ドームより空調が寒いっていうの売りにしたらいいと思います。やっぱりめちゃくちゃ寒い。

 

札幌公演からの変更点

 わたしが覚えている限りでは

・LIFE(後半→前半)と侍唄(途中→最後)の曲順変更

・宇宙に言ったライオン、オモイダマの消失

・バリンタンとキャンジャニちゃんの「素敵な人」映像の順番が入れ替わっていた

くらいですかねオープニング映像以外で、大きいのは。よく考えると、それくらいなんですよね。それ以外は覚えていないので、意識の外で作用したんでしょうね。

 にしても侍唄をラストの曲にされたのは個人的に感慨深いものがありました。以前、すばるさんがコンサート最後の挨拶で「こんなクソみたいな時代ですけど、生き抜きましょう」といったようなことを言っていて、わたしはそれを聞きながら「関ジャニ∞がいるってだけで素晴らしいこの時代がクソなわけあるかい」と思っていたんです。いまでも当然思っています。それが、すばるさんの今回の挨拶を聞いたあとの、侍唄の「どの時代も越えて行けるよ」という歌詞で、なんでか妙にするりと数年越しに腑に落ちたんです。文字にしてしまうと、たったそれだけかい、と陳腐なものになってしまうのですが、個人的にとても良かったです。そもそも侍唄のイントロを弾いているのが錦戸亮ちゃんだっていうことが、音楽にも楽器にもなんにも詳しくないわたしのような人間でも分かるので、ドームに自担の弾いている音だけが鳴っている状況で必要以上に感傷的になってしまうことは避けられなかったんだと思います……。LIFEは自担が好きな曲に毎度毎度挙げるので、もちろんわたしだって大好きです!!という気持ちで毎公演入らせてもらっています。選抜漏れなくてよかった。欲目だと思うけど、この曲は聞き飽きない。

 っていうか、札幌公演もそうでしたけど、錦子ちゃんへの歓声が錦戸相手に出す歓声じゃないだろってくらい大きくて楽しいですね。普段錦戸さんへ言いたくてたまらなかった「可愛い~!!」の歓声を、女装しているという免罪符のもとで、思う存分叫ぶことができてわたしは幸せです。我慢できないっていうのもありますが。普段だってめちゃくちゃかっこいいしかわいいんだけれど、いざコンサートで叫ぶかって言われると、そんな動的な衝動にならないんですよね、不思議です。ふにゃん、と気が抜けちゃう。全体的にキャンジャニちゃんへの歓声が馬鹿みたいに大きくて、こういうの嫌いじゃないと思いながら、周りの迷惑だろうなって分かってるのに一挙手一投足に打ち震えて衝動のまま叫んでいる自分がいます。三十路のおっさんだって、分かってるのに。

 

 東京公演、始まってから終わるまで、正直ずうっと楽しかったです。札幌でわたしが感じた、何とも言えない微妙な感覚を東京公演で一つも感じなくて、驚いています。札幌公演終わってみて文句も言ったけれど結局楽しくて、それで、楽しいと分かっているからこんなに心の底から楽しめたのかな、と一瞬邪推したりしたのですが、なんか、そうでもない。本当に楽しかった。アルバムの一曲目二曲目、めちゃくちゃ盛り上がっていて、楽しかったポイントを書き出そうとするとキリがないので、こんな誰も得しない感想文を書いているのですが、ペンライト持ってもないのに腕を思いっきり挙げて「わーい」ってやるしかなかったのが本当に楽しくて、関ジャニ∞楽しいわ、と改めても思いました。MCも滑ってなかったし。ただ足から冷えてくるね、東京ドーム。

 札幌公演が文句もあるけどそれ以上に楽しかった公演だとすれば、東京公演は文句はあるかもしれないけれど公演中に忘れるくらい楽しかった公演でした。いろいろ歌詞は間違え過ぎだけど。ダブルアンコールないの切ないけど。錦戸亮ちゃんの曲前挨拶が、ちゃんとしてて、なのに締め方だけへたくそで、実はこの人ちゃんと完璧にできるのに完璧にできる自分の成長があまりにもあからさまにされると恥ずかしいとか思ってわざと誤魔化したんじゃないの、とかどうでもいいことに切なくなっていたりしました。関ジャニ∞さんの書く直筆の歌詞が、小学校の卒業文集のような丁寧さでモニターを見ながら少し笑ってしまいました。

 そもそも札幌公演がたのしくなかったんじゃなくて、わたしかつてはそういう冷めた見方ばかりしていた人間だったことを思い出して、ああ、感情の上限が取っ払われてしまったことが異常だったのかもしれない、と感じました。普通の「楽しい」を越える楽しさを知ってしまったから、普通じゃ満足できなくなったのかな。そうだとしたら、札幌公演のわたしは、ほんっとうにあり得ないくらい期待をしていたんだろうと思います。前髪下ろしてくれるかなとか。でも、そこにいたのは普段と変わりない関ジャニ∞で、普通じゃん、と思ってしまったのかもしれません。普通の関ジャニ∞が最高に好きなのにねえ。

 衣装がダサいっていうか、錦戸亮の体型が錦戸亮じゃないから、めちゃくちゃ違和感あったりしました。衣装はダサいけど。赤色のWASABIの衣装も、赤色じゃなきゃダメ? というなんというか絶妙なダサさ。オープニングの衣装も、なんか赤すぎない? という細やかなダサさ。新体操みたいな衣装(十祭のブリュレ等の衣装)じゃない分、特に取り立ててダサすぎるということもあまりないので、良しとするべきなのかもしれません。

 

結局楽しい

 錦戸亮さま、一公演でいいので前髪おろしてみましょうぜ。*1 あとさあ、絶対に教えてくれないでしょうけど、サックスの練習何年前からしてたの? 横山さんに「夢だ」と言われたときから、練習してたりしました? 数年前に横山さんが「いつか」と口にしたことが2015年で叶ってしまって、2016年から先の「叶うかわからないけど自担に叶えてもらいたいこと」がなくなってしまいました。それを「常時、前髪を下ろしてもらうこと」にするにはあまりにも切ないので、いま考えているところです。

 

 

 

 

*1:でも関ジャムの次回予告を見て前髪のある自担を一瞬誰だろうと思ってしまったほどなので、随分とならされてしまっている

関ジャニ∞の元気が出るLIVE‼ 札幌ドーム初日公演に行ってきました

 行きました。12月13日の初日公演、札幌ドームまではるばる。特に意義のある感想や有意義なネタバレは致しませんが、せっかくなので書かせてもらいます。びっくりするくらい主観です。とやかく言うと思いますが、楽しかったという感想を持っていることを大前提に読んでいただけたら、と思います。もちろん、ネタバレを避けている方は読まないでくださいね。

 

 

 

 初日公演に入ってぼんやり、このツアーはもしかして「元気が出るCD‼」を引っ提げて、もとにして行われる「元気が出るLIVE‼」ではないのではないか、というひとつの仮説を持ちました。「(関ジャニ∞の思う)元気が出る(曲で構成された)LIVE‼」というほうがしっくりくるような気がしました。

 

 まずさあ、遠征をしているわけです。飛行機を使って。それなのに、最初の5曲で「わたしはこの曲を聴きにわざわざ札幌まで来たんか」と愕然としました。後悔しそうになりました。冒頭5曲は、「キングオブ男!→へそ曲がり→がむしゃら行進曲→前向きスクリーム!→もんじゃい・ビート」の5曲。キン男とがむしゃらは踊ってたかな、ほかはお手振り曲です。てっきりこちらは今回のツアーはバンドばっかりだと思って臨んだので、思いっきり肩透かしを食らいました、悪い方の。狙ってたハズシ、なのかもしれませんけど、どうなの。ちょっとだけ、批判的になってしまうのは、この最初のガッカリ感が大きかったのかな、と思います。しょっぱなお手振りってどうなの。そういえば、事前にサポートメンバーの方のインスタグラムにてセットリストが流出していたそうですが、それを見てしまった人は、まあがっかりしたでしょうね、と思う。蓋明けてみれば演出が特別なわけでもなく、今年力を入れていたバンドでもなく、ただのお手振りだし。この冒頭だけ、どうしても文句が言いたかったので、すみません。そういうサプライズ要らなかったから、普通に、みんなが❝期待していた❞通りのアルバム1曲目から始めてほしかったです。これだけは本当に、残念だった。

 アルバムをひっさげてのツアーだと思っていました。「元気が出るCD‼」がとても好みで、最高に楽しくて、本当に良いアルバムだと思っていた分、ちょっと期待しすぎていたのかな、って反省しました。全体的に例年に漏れず衣装がダサいのと、アリトロがなんだか味気なかった印象が大きいです。

 6曲目「ふりむくわけにはいかないぜ」ですげえ煽られるんです、最後の「ふりむくわけにはいかないぜぇ」って歌詞をね、歌ってくれって煽られるんです。いやマジでこれまでの5曲分ふりむきたくない…という妙な怨念を籠めて呟いたんですけど、聞こえてるんですかね、聞こえてなさそう。叫ぶほどの気力もなかったよ。いやもう、むしろこの曲から始めようよ。

 散々言われていた「札幌初日は公開リハ」ってこういうことだったんだろうか、と思わず考えました。初日に入るようになって二年、ネタバレを避けるのも面倒だし、愛情と熱情で国内線飛行機くらいは乗れるようになってから二年、初めて6曲目くらいで「このツアーだいじょうぶなの?」って思ってしまった。ちなみに、わたしは去年のツアーとっても楽しかった派なんです。色々な感想を抱く人がいて、当然だと、思うんですが、冒頭5曲をあの場にいた人はどう思っていたんだろうか、と気になります。

 ようやっとバンドだ!!!!と思ってたらズッコケが通常バージョンだし、速度の遅いトロッコに乗るし、今回ぜんぜん思ってたんとちゃう!!!ここでそれなの!!!???期待外れとか以前にちょっとこっち側の考えを改めるので待って!!!???みたいな、わりと感情が追いつかないような前半だった。案外バンドやらないのかも、とそのとき気が付いた。なんにせよ、第一印象が悪かった、ちょっと批判的に見てしまった、それだけを後悔しています。でも、初日だしセトリ知らなかったし、不安にもなるよあの冒頭……。あ、オープニングの映像は良かったです「さっき通ってきたところ!」という興奮。開演前のバックステージの(おそらく)リアルタイム映像が流れて、メンバーが円陣を組んで、スタート、なんですが、衣装がダサくて結構会場がざわついてました。いや、本当に何とも言えないダサさなので、ぜひとも見てもらいたいです。

 

 ズッコケからMCを挟んで前後6曲。

 ここが最高。開演前映像で、なんだったかな、「ここから終演までノンストップで突っ走りますので」みたいなアナウンスがメンバー似顔絵のアニメーションとともに流れていたんだけれど、このあたりこそノンストップで畳みかけてくる数曲(とコント)だった。正直、ここにお金を払ったと思っても惜しくないし、ちょっとだけ冷めてた気持ちが沸騰しました。ほんっとうによかった、ツアーでキャンジャニちゃんに会えると知って本当に嬉しかった。錦子ちゃんのうさみみバンダナが正義だったし、後半踊っていたせいでウィッグがズレてきたのか、眉毛が晒されていたのも、これまたオツで良かった。メンバーがカメラに抜かれたときの歓声の大きさとか、おそらく錦戸担以外も叫んでいるであろう錦子ちゃんへの歓声の大きさとか、どうしてここまで三十路のおっさんの女装に沸けるのか、よくわからないまま、悶絶するしかなかったです。ちょっとしたコントも、やけにシュールで、しきりに関ジャニ∞が滑っているか心配していたけれど、それより冒頭のほうが滑っていたので全然問題ないと思います。丸山さんの映像が男前すぎて、普通に映ったときに会場が「はッ…!」と覚醒していたのがおもしろかったです。逆に安田君は引かれてたけど、あれが安田さんなのか安子なのか、最初は分からなかった。同じ顔しているからややこしいね。安子ちゃんはぶりっ子ポーズしているのが本当に可愛くて、真顔でタイピングしているわたしの気持ち悪さに引いてしまいそうです。安子ちゃんのあざとさに、乾杯したい。倉子と丸子の喧嘩コントが見られたことが嬉しくて。

 つーかもう全員可愛いよ、本当に可愛い。お仕事している関ジャニ∞(映像)を女装した関ジャニ∞が見ている図がシュールで、なんかもう、言葉も失う面白さだった。特に、ラブスーパーマンの映像を見ている錦戸さんが羞恥に耐える表情をずっと抜かれていたのと、映像終わりに思わず崩れ落ちる村子ちゃん(村上信五)の可愛さったらなかったです。

 あとは「少年倶楽部プレミアム詐欺」。本当にもうあれは詐欺だ。開演前にバリンタンのフリが難しすぎて覚える気が一切起こらなかった、と友人たちと笑っていたんですが、まさかキャンジャニちゃんがスカートひらひらさせながら踊るとは思ってもいなかった騙された。フリ覚えてたって踊れていなかったに違いない。こういうハズシを各所に散りばめたかったのかな、とぼんやり思ったり。というか、渋谷すばるもといすば子ちゃんスカート短すぎて、タンバリンを足の下に通すフリでパンツ見えてしまうのでは、とめちゃくちゃ不安になったよ…なに三十路のおっさんのパンチラ心配してるんだろうって感じですけど。

 キャンジャニちゃんコーナーからの、夏の恋人という、この一連の流れが最高過ぎてたまらなかった。衣装もかっこよかった。と思ってたらそれ脱いでMCだから、あっ着席っすか、なるほど、上着脱ぐと錦戸さんが黒のシャツに白のズボンというなんともシンプルな衣装になるのがたまらん、と思っていました。MCはうちわの話でした。錦戸さんが前髪下ろしてっていううちわ見て下ろすのは違うって言っていましたけど、なんなら暗転しているときに大声で「りょーちゃん前髪下ろしてーー!!」って叫んでやろうか、と思うほど、前髪下ろしてほしいです。まあ、そんなこと言いませんし、彼が前髪を上げようが下ろそうが、可愛いんでどうでもいいんですけど、前髪下ろしてください。下ろしてたほうが可愛いことを、彼は知っているんでしょうか。

 ユニットに関してはノーコメントでお願いします!!!!!!!!コメントする余地がない最高!!!!!!!!!!!!!全ユニットほほえましくて、もうまとめてシルバニアにしてやろうか!!!!っていうくらいです!!!言葉で表現するとすれば「どストレート尊い」とかですかね。

 あと錦戸亮ちゃん最高に楽しいね。いろんなことしてるね、いいね、楽しそうだね。横山さんにも楽しいって思ってもらえてたらいいなと、勝手にオタクが思うばかりです。あと、コメントする余地がないとか言っておいてツイッターにて思わず漏らしてしまったので以下に追記しておきます。

錦戸亮ちゃんが「大好きな横山先輩」と満を持して同じユニットになって気合いを入れないわけがないし、その気合いの入った結果があの演出なのだったら、提案したのがどちらであれもうわたしは2015年に思い残すことなんてなにひとつないよ。

「できないことはやらない」とはすばるさんの挨拶ですがそれを踏まえると、よこりょ・まつばらユニットのどちらも「できる」と判断されてのあの演出なのだろうから、それだけで最高。控えめに言っても最高。

錦戸亮ちゃんがなんでもかんでもできることを、やっぱり当たり前だと思っていたい。彼が当たり前のようにこなす限りは。

 ユニットはまあ組み分けの時点から最高だったわけなんですが、はたしてそのほかは、という。KING曲の関ジャニ∞さんの点呼が生じゃなかったの残念だったな~、でも周りで踊る関ジャニ∞が可愛くて、なんなら、なんらかの最新技術で村上さんもここに混ぜてくれよと思ったりしました。錦戸さんのそれがいつかのドラマで見たそれだね、って話していました。可愛い。

 後半も別にバンドが特別多いわけでもなく、ナントカナルサがトロッコ曲だったことにも衝撃を受けたのですが、この時点で歌われていないスペアキーとナイナイアイラブユーへの心配が大きかった。聴きたい…と思っていたけれど叶わず、ちょっと落ち込みました。っていうか、絶対これ踊らななに踊るねんって思っていたWASABIが特にめちゃくちゃ踊るわけでもなく、映像が楽しいだけでしたし、ゆるすぎた。バンドに関してはようやく後半になってアルバム1曲目2曲目と来て、無駄にホッとしたところもありますし、ていうか関ジャニ∞オモイダマ大好きかよ。わたしも好きだよ。しれっとオモイダマはバンドなんですが、もうそんなのどうでも良いと霞むくらいWASABI問題とか歌ってないアルバム曲問題とかで、終演後の会話にしばらく上がりませんでした。終演後は錦子ちゃんへの賛美で終始盛り上がりました。

 ところで、アンコールのバルーンを提案したの誰なんですか。あれ、過去の遺産じゃないんですか。人数が奇数のうちはぼっち出るの切ないから辞めようよ、とも思うんですが、一人乗りブランコの横山さんは最高に可愛かったので、所詮オタクなんて弄ばれているだけですね。あのシングルメドレーもなかなか妙だった。急☆上☆show!!は実は聴きたいシングル曲ランキング堂々の第一位の曲なので(わたし調べ)不意にテンション上がったりしたのですが、にしても今回のシングルの多さはよくわからないですね。ファンのシングル曲過多の求めてなさ、を、もしかしてメンバーは知らないのでは。

 

 挨拶で、すばるさんが「できないことはやらない」と言っていて、ああそうか、と妙に納得してしまった。きっと、いまできるすべてを出し切って考えてこのセトリになったんだろう。中途半端なものになるならいっそやらずにいよう、というプライドとか、そういう類のかっこよさなんだろうと思う、実際がどうかは知らないですが。札幌から帰ってきて、推敲もほとんどせずにブログに、思ったまま、もしかしたら語弊やわたしの勝手な思い込みや勘違いがあるかもしれないのは承知の上で書いているんですが、セトリは正直これなの? これから修正する? という不安もありつつ、それでも、関ジャニ∞というグループに対して不安を一切持たなかったので、どうせならとことん考えたいと思って、書きました。ツイッターで「セトリ最高だった」という言葉をよく見かけて、楽しくなかったとは言わないけれど最高だったかと自分が考えてみると、そうでもない。あれを最高と言ってしまえるほど、わたしは関ジャニ∞の2015年を諦めたくない。きっと関ジャニ∞も現状の精いっぱいを見せてはくれるにしても現状のパフォーマンスに満足しきってはいないでしょうし、これからもどんどん向上していこうとして、今年より来年、来年より、って素敵なものを見せてくれようとするんでしょうが、その来年のコンサートに、スペアキーとかナイナイアイラブユーとか、今年出したシングルのカップリング曲はあるんでしょうか。いっぱい、いっぱい、シングルを出して、年に一度きっちりアルバムを出して、そうしてこの数年間で歌わずにほったらかしにした曲が何曲あるんですか。それらの曲を歌わずに、歌うもんじゃい・ビートとかシングルメドレーなんて、どうしたって純粋に楽しめないよ。それでも、きっと関ジャニ∞に思うところはあって、そんなのたかだかファンには知り得ないですし、分かっているんですけれど、どうしてもあのセトリを最高だとは言えなくて、けれど、今年のツアーのセトリがアレでセトリを考えた人とその他メンバーからのGOサインが出たのであれば、そこにはきっとたくさんの想いがあるはずなので、それを知りたいと思います。どうしても、分かりたい。どうしたって関ジャニ∞が好きなんです。

    っていうか、関ジャニ∞自身らが特に楽しそうで、村上さんが最後の挨拶で「僕たちの方が楽しんでしまった」というようなことを言われてたんですが、いやもうそれが世界で一番大切ですよ、それより大切なことなんてないです、その一言でめちゃくちゃ元気出ましたわ、って感じでした。思い出すだけで口角がだらしないことになる。

 

 書き洩らしもたくさんあるんでしょうが、それはおいおい追記していくとして。ただお金を払っているだけのファンが偉そうに何を、と自分でも辟易します。楽しさを8100円(プラス遠征費等々)で買っただけなのに、ねえ。

 とにかく、初日おつかれさまでした。錦戸亮ちゃんドラマもお疲れさまでした。コンサート間違いなく楽しかったです。それは本当です。だいすきです。

 

 次は東京に行きます。なんだかんだいいつつ、楽しみです。

 

 

 

 そういえば、年末年始号のテレビぴあを購入しました。錦戸亮から加藤シゲアキへのメッセージが載っていて、どうしていいかわからない2015が終わらないです。カウコンもあっさり外れて切ない年の瀬です。




 

2015年冬、錦戸亮のために生きたい

 こんばんは。

 関ジャニ∞初バンド形式シングルの「LIFE~目の前の向こうへ~」の歌詞で「誰かの為じゃなくていい 自分の為に生きても」という部分があるのですが、ずっと、自分の為に生きるほうがよっぽどしんどいのでは? と思って暮らしています。誰かの為に生きるということは、まあ適当に言うと花の蕾に水を遣るようなもので、綺麗に咲けば嬉しいし、ああ水を遣ってよかったと思う。自分は水を遣っているだけなのに「咲いた」という達成感さえ生まれる。一方、枯れてしまったら、まあ、そんなこともあるよな、と落ち込みはするかもしれないけれど、だからといって水を遣る以上のことは自分にはしてやれないので、仕方のないことだった、と諦めることだってできるしょう。所詮は花なんだし。もちろん花にめちゃくちゃ固執する人だっているでしょうが。

 でも、自分の為に生きるということは、自分で自分に水を遣りつつ、しかも自力で綺麗に咲かないといけない。将来的に綺麗に咲くことを自分に期待して、せっせと水を遣らなくちゃいけない。自分が綺麗に咲くとも分からないのに。わたしだったら、葉っぱが付いてきたくらいの段階で「果たして自分はこうして水を遣るだけの価値のある花になれるのか」と自問して、自分へ遣った水の分だけ悩んでいそうです。

 何の話かというと、アイドルへの投資って最終的には自分への快楽になるけれど、結果を出すのはアイドルなので気楽でいいですよねっていう話です。

 

 さらに何の話かっていうと、FNS歌謡祭を見ました。JUJUさんゲストの関ジャムを見ました。錦戸亮の歌う「粉雪」を聴きました。錦戸亮の歌う「この夜を止めてよ」を聴きました。

 錦戸亮のファンでいるだけで、これらを甘受できるなんて最高じゃないですか!?

 わたしなんにもしてない。テレビ見てただけ。「錦戸亮ちゃんがソロで歌うの? やばくない? なにそれ? っていうかデマじゃないですよね……? まあ前髪がないことだけは放送前のわたしでも分かる」という具合に惚けていただけです。リアルタイムで見てすらない。録画していたのを再生しただけです。正座して。

 このブログを持ってから数か月、とりあえずこの馬鹿みたいに持て余している自担への愛情(?)を吐き出させてください、とばかりに書きなぐってきたけれど、わたしはなんかもう、うぬぼれていたのかもしれない、と思いました。反省しました。おこがましいことをたくさんしてしまった。錦戸亮がどうこう、わたしに語れるわけがない、けれど、錦戸担として自分のことについてなら話せるだろう、と思っていました。思っていたんですよ。でも、感想すら持てないありさまです。

 だって、「粉雪」をFNS歌謡祭で、藤巻亮太さんと、並んで歌ったんですよ。しかもテロップに『錦戸亮出演ドラマ「1リットルの涙」挿入歌』って書いてあるんです。10年前のドラマです。

 

 

 

 言葉を失いますよね? 

 私の知り得る範疇を超えている。キャパオーバー。どれだけのスペースがあれば全部とっておけるんでしょう。この圧倒された感情を。

 

 花には水を遣らなきゃ咲かない、という方程式が、錦戸亮には通用しないのではないか。水なんてなくても、綺麗に綺麗に咲くものだから、あんまり綺麗に咲くことができてしまうから、水なんて遣らなくても、と思わせられるような。

 きっとわたしのこの熱情の、少しも、ひとかけらも、錦戸亮は必要としていないのだろう、と改めて考えさせられました。*1こんな毒にも薬にもならないブログなんて陳腐なことをしている場合じゃない、けれどブログくらいしかすることもない、しょーーーもない人間さえ、生きててよかったと思わせる「錦戸亮」のすごさですよ。わたしがどんなに自分に水を遣る手間を惜しんで咲いてるんだか枯れているんだか分からないような人間でも、そんなの自担にはなんの影響もなくて、今日も自担は綺麗に咲いている。自担という花が勝手に綺麗に咲いているがために、今日もわたしはせっせと生きているんだと、そういうことを考えました。惚れてしまったので仕方ない自担のために生きさせてくださいとお願いしたいほどです。番手を頂きたいだなんてそんなおこがましいこと、思ったりしないので、自担のために生きさせてください。自担のことを思い出さない夜もいらないので。終日錦戸亮です、と何十万のファンが思ったであろうことを、思います。

 そういった具合に、錦戸亮ちゃんが可愛いのでせっせと今日も生きています。好きでいるだけで、こんなに楽しい毎日が過ごせるなんて、とんでもないことですよね。誰が錦戸亮に水を遣っているのだろう。誰が水を遣ってあんなに綺麗に咲いているんだろう。ありがとうございます、としか言いようのないことですが、きっとお礼も言えずに死んでいくんでしょう。

 もう根本的に違っていて。わたしは錦戸亮という現象をただ見せられているだけの傍観者で、実際彼のことを自担だとかなんとか言っているけれどそんなのおこがましいことなのでは、とふと悟った次第です。わたしの尺度で彼を測ってはいけない。ツアー前にひとつ気が付けてよかったです。関ジャニ∞にいるとそういうことを忘れちゃうのは、グループの色に染まっている錦戸亮が、関ジャニ∞の親しみやすさに染まりきっているからなんですかね。*2

 

 ところで、サムライせんせい、クランクアップお疲れさまでした。ペータ先輩とお別れしたくなくて、もうちょんまげでコンサートしよう、前髪なんてなくてもいい、とそんなことを思う元気が出るLIVE‼ 初日1週間前です。ドラマとコンサートリハと年末の歌番組とその他もろもろをこなす凄さが、冬の寒さに怯えるだけの一般人には到底分からないのですが、分からせないところも最高に好きです。*3

 

 はてなブログでこんなに馬鹿なブログを書いてていいのか、さっぱり分かりませんが、まあ、恋は盲目と言いますし、馬鹿なジャニオタもいるんだなと戒めにしてください。失礼します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:そういうところが最高に好きです。

*2:そういうところも最高に好きです。

*3:最高に好きです。

関ジャニ∞らしさと「元気」

 発売から二週間が経ちました、「関ジャニ∞の元気が出るCD‼」。タイトル発表されたときの「パロディじゃん」「これがタイトルなの??」という感情も思い出されますが、それ以上に、なにより、確かに元気が出る。とんでもなく強いアルバムだな、と思ってここにいくつか、アルバムを聞いてツアーに臨む前のいま、ひとつ思ったことを書いておきます。

 いわゆる新規のわたしが、アイドルというものが作られているものだということに気付いたブログです。今回のアルバムでようやく気が付きました。アイドル楽しい。

 

そもそも「関ジャニズム」とはなんだったのか

 昨年関ジャニ∞10周年の、アルバムタイトル、そしてツアータイトルであった「関ジャニズム」ですが、そもそもなんだったのか。結論として、関ジャニ∞はどういう定義づけをしていたのか。これを分かっているファンは少ないのではないでしょうか。

 ちなみに、わたしもよくわかりませんでした。「思いを届け続けること」とコンサートの挨拶ではメンバーが言っていましたが、「関ジャニズム」「関ジャニ∞らしさ」としてそのまま受け取っていいのか、わかりません。けれど、わからなくて当然だ、とわたしは思っているので、(だって関ジャニ∞じゃないし)わかるまで考えていようと思います。

 ただ、わたしが感じた関ジャニ∞らしさ、というのがあって、それは「外から作られるもの」だということです。それぞれが、「関ジャニ∞」というグループに対して「らしい」と思うなにかしらの印象があって、それら自体が正しく関ジャニ∞というグループそのものであるとしているのではないか、と思うのです。そのイメージこそが、「関ジャニズム」「関ジャニ∞らしさ」である、と。関ジャニ∞から「関ジャニズムとは、関ジャニ∞とは、こうである」と限定されて提供されるのではなく、関ジャニ∞に何かを求める人が見る関ジャニ∞の姿こそが、その「何か」こそが「関ジャニズム」である。ファンからのイメージ、世間からのイメージ、等々。「関ジャニ∞」というパブリックイメージを壊さずに背負いこむ覚悟が、彼らにあるのでしょう。つまり、なんでもない。ということです。なんでもするし、なんにでもなれる。「関ジャニ∞」という名前を持っている彼らに、意味をもたらすのは、彼らではなくその周りなのではないか、ということです。

 たったそれだけの単純なことに、わたしはどうして今まで気が付かなかったのだろう、と不思議でなりません。

 

関ジャニ∞といえば「元気」

 ということでしょうが、彼らの性格について「わてら陰気な関西人」*1という言い得て妙なフレーズがファンの間で言われています。そのあたりは割愛しますが、世間的には元気というイメージが先行しがちな関ジャニ∞が実は元気なばかりではない。のにも関わらず、この11周年、2015年に「関ジャニ∞の元気が出るCD‼」と銘打ったアルバムが発売される頓珍漢さ。まだ言いますか!? とでも言いたくなるような元気の押し売りに、マジかよ、と思っていたのも正直なところあります。

 去年のアルバムコンセプト、覚えていますか? 「おもちゃ箱」です。その前の年が「JUKE BOX」。とにかくなんでも入っていますよというアルバムばかりです。今年は「元気」。別段取り立てて、例年とコンセプトが違うかというと、そうでもない。年々増えていく著名なバンドやアーティストに楽曲提供してもらって歌う「らしさ」、が押しつけのように思えたりもしましたが、今年のアルバムを聞いて、そういう次元ではないのだ、と知りました。そういう次元じゃない。

 感じ方は人それぞれだとは承知していますが、著名なアーティストが「関ジャニ∞」というものをそれぞれ表現されて、それをわたしたちは一種のエイトの「イズム」として受け取っている。関ジャニ∞はある意味どこまでも媒体でしかないのではないか、と考えました。今まではレコード会社が作ってきた楽曲イメージを、分かりやすく「外」である著名なバンドの方々に踏襲してもらうことで、成長させる。彼ららしさは、彼らが作るだけじゃない。大きくなったからこそ、内外問わずたくさんの人に作ってもらえるのだ、と。

  だから、関ジャニ∞は「元気」なんです。世間が彼らに元気でいて欲しいと思う限りは。

 


とはいえ可愛いから仕方がない

 言葉で読むより聞いたほうが早いとわたしの中で評判の「関ジャニ∞の元気が出るCD‼」の、最後の曲である「元気が出るSONG」。この曲にどう文句をつけようとしても「かわいすぎる」としか言えないので困っています。散々今まで書き散らかしてきた詭弁のようなブログすら、もうどうでもいい。今回のアルバムにはメンバーが作詞・作曲に携わったものも多くあり、外と内のバランスがうまく取れているような気がします。楽曲提供と言われたものの数の多さにしては、他人事っぽくない。その理由は、それらの楽曲の濃さなのだろうと思います。ただ、関ジャニ∞が元気なのは楽しいから全然良いですしこちらも元気になるし、最高なので構わないんですけど、それに比べてこの錦戸さん主導で作られた「元気が出るSONG」、正直、ぜんっぜん元気出ません。

 錦戸さんが主となるメロディーをあらかじめ作り、そこにメンバーが順にリレー方式で歌詞を書いていって作られた曲なのですが、サビを書いているのが錦戸さんで、彼の関ジャニ∞に対する思いの深さが目に見えるようで、「元気とは…?」と辞書で引いてしまいたくなるくらいに、切なくなります。けれど、聴きながらどうしようもなく関ジャニ∞が愛おしくなって好きだなあと思ってじんわり染み入るような元気を貰える、そんな歌です。そう思うのはファンだけじゃないんでしょうね。

 永遠に「ずっと一緒」だといいですね、きっとそうだと思いますよ。

 どうしようもない無茶苦茶でバカみたいな元気の根源に、そういう丁寧な切実さがあると実感させられて、これこそ、関ジャニズムなのではないかな、とこっそり思ったり、しました。

 

 

 

ほんとうは

 もっといっぱい言いたいこと、ユニットのことだとか、アルバム収録曲への感想とか、特典のこととか、サムライせんせいの主題歌「侍唄」のカップリングとして今日情報解禁された「Heavenly Psycho」の新録リアレンジのこととか、あったのですが、またにします。楽曲は歴史を持つものとはいえ、いろいろありますね。編曲者に「錦戸亮」という名前があるせいで、よけいに。彼の好きな関ジャニ∞の楽曲トップ3といえば「LIFE~目の前の向こうへ~」「BJ」そしてこの「Heavenly Psycho」というイメージがあるので、大切な曲をもっと大切なものにしてくれるのだろうと個人的には楽しみでしかない、です。メンバー演奏だし。もちろん、それはわたしの性格ゆえであって、どうしたって古参の人が戸惑ってしまうのもわかるので、コメントと発売日を待つばかりですね。






 

 

 

*1:「TAKOYAKI in my heart」という楽曲の一部をもじったもの

錦戸亮の着た衣装マイベストランキング

 お誕生日おめでとうございます第二弾!です!先日ツイッターでそういう話をしていて、せっかくなので自分もランキングをしてみます。これを機にいろんな衣装を着ていたなあ、と思い返そうという魂胆です。といいたかったんですけど、正直映像見返す時間が取れずにわたしの思い出が主な根拠になっているので、覚えているかぎりの衣装です。明日になったら順位が変わっているかもしれません。マイベストというより記憶頼りのマイベストですね。悪しからず。

 

 

第一位♡ 2011年FIGHTコン DyeD? の衣装

 特に考えるまでもなく一位です。というか一位だと言いたい。なんというものなのか、はっきりと知らないのですが、リボンタイ? 細いリボンをちょうちょ結びにしているあの、あれです。あれがね、DyeD?のフリで揺れるんです。ちきぶんぶんって言ってるフリです。あのヨーロッパ的なスーツもかっこいいのは言うまでもないですが、メンバー揃いの衣装で、ネクタイ部分とかちょっとした部分だったりシャツだったりが違うの、めちゃくちゃかっこよくて、たまらないんですけど、あれでさらに踊るのだからもう息も絶え絶えのかっこよさ! そのうえ、錦戸さんの衣装がリボンタイなの、やっぱりめちゃくちゃ好みです。あれが華奢に揺れて、錦戸さんの華奢な体型とダンスとで、さらに素敵に見える。慎ましい可愛さに、男性的な華奢さにと、もうたまらない思いをしたのを今でもはっきりと、あの衣装を想像するだけでありありと思い出せます。最高。

 そのあとの曲(wander)でジャケットを脱いでシャツ一枚の恰好(リボンタイ付き)で歌うのですが、それもまたかっこいいんですよ。綺麗の過剰摂取をあの衣装が助長してくれていると思うと、もう、あの衣装だけは死守してくれ…っていうか着てください…と思うばかりです。

 

第二位♡ 2009年単独カウコン マーメイドの衣装

 こちらもリボンタイの衣装です。あの、ほんっとに分かってもらいたいんです、錦戸さんと華奢なリボンタイの相性の良さを。っていうか、いまふと思い出したんですが、コンサートDVDではbrilliantblueもこの衣装でしたよね。この衣装、噂によると後輩に降りちゃったらしいんですが、結構ショックです。ジャニーズの摂理とはいえ、結構ショックです。めっちゃお気に入りだった自分のセーターをサイズが合わなくなったから、という理由で下の子に譲るような切なさ。飾ってちゃだめですか…というような。とはいえ、まあ、それはさておき。錦戸さんの華奢でしなやかなダンスで、ひらひら揺れるリボンタイの繊細さ、ほんとうにたまらないですよ。っていうかスーツスタイルでダンス曲を踊る魅力がとめどないですよね。醍醐味ですよ。ジャニーズのダンス曲の衣装は着てなんぼだと思っています。どれだけちゃんとした衣装を着るか。わたしはリボンタイが好きです。以上!

 この文章を打ちながら、「ああああDVD観ちゃおうかなでもそんな時間ない」とまぶたかっぴらいているので、今回のツアーでリボンタイ拝めますように、と念じておきます。今年のツアーの衣装が華奢でメンバー揃いの衣装で、色ばっかりに拘っているような雑な衣装じゃありませんように、と祈っておきます。

 

第三位♡ NEWS LIVE!LIVE!LIVE! 星をめざして で着ている衣装

 あの、あれです、モノトーンのチェックに黄色の星柄の上下スーツスタイルの衣装です。あれもめちゃくちゃかわいい。アイドル感がMaxで、NEWS感もMaxで非の打ち所のない完璧なアイドル衣装。これ以上のコメントが思い浮かばないけれど、めちゃくちゃ好きです。安定して好きだし、なんというか、これ以上もこれ以下もないお手本のようなきれいな衣装ですよね、すごいと思う。NEWSのモチーフは星だと思っていて、たぶんわりと多数の人もそう思っていて、そういう意味でも外せない衣装。そしてこの衣装も、上位二つの衣装もそうですけど、個人の衣装を選んだつもりでも、メンバー全員の衣装が同じ布でできているものを無意識のうちに選んでいて、やっぱりそういうメンバー揃いの衣装ってそれだけでたまらないものがあるよねと思っています。

 ちょっと話は変わるのですが、増田さんの衣装の最高に優れているところは、それを崩していないところだよなあと思います。このランキングとは関係ないのですが、美恋コンの最初の真っ白の衣装とか、中盤で着ている青色のスーツに花があしらわれている衣装とか、ものすごく好きです。やっぱり揃いの衣装を着てこそ、だと強く思う。

 

結論

 揃いの衣装さいこう。リボンタイさいこう。

 追々、この記事に追記していって私的ランキングを完成させたいと思う。そういえば、perfumeが最近は一度しか着ない衣装が多いと言っていて、それはどちらかというとこちら側でいえば関ジャニ∞で、案外NEWSはツアーで着ていた衣装を上下セット変えたりして着ていて、差異だなあ、と思いました。七人分の衣装だなんてお金もかかるだろうにどうしてあんな柔道着みたいな……なぞですね。脱ぎやすい衣装なんて柔道着じゃなくても、天下のジャニーズなんだからどうにでもなっただろうに、という疑問です。そういえばperfumeの衣装も、揃いの衣装が最近は特に多くてうきうきします。

 わりと落ち着いた、綺麗めな衣装が好みなのかもしれない。そんな傾向がうっすらと見えました。

 お付き合いありがとうございました。ぜひ、機会があれば好みの衣装を考えてみてください。案外、全体のバランスに左右されるのでは、という仮説をひとつ経てておきます。

 

 

 

 いつまでも変わらず、31歳になっても、アイドル衣装着ててほしいよ~~頼むよ~~~。

 

 

 

 

 


 

錦戸亮は毎秒死に絶えている / アイドルは作家である

 前回のブログとは打って変わって軽薄なノリのブログになる予感がしています! なんてったってお誕生日なので。そんな記念すべき今日のブログは「錦戸亮ちゃんは毎秒死に絶えている」「アイドルは作家である」の二本立てです。全体的に頭の弱い錦戸担による自担お誕生日仕様の脳内垂れ流しとなっておりますので、悟りでも開こうとしているのかな、と優しく見守ってくだされば幸いです。「錦戸亮」という名前がゲシュタルト崩壊起こしそうなほどに出てくるので気を付けてください。

 

 

錦戸亮は毎秒死に絶えている

 ということは毎秒新しい錦戸亮が生まれているということです。生まれ続けている。この瞬間の錦戸亮はもう次の瞬間には存在していなくて、それを「死ぬ」ことだとすれば、毎秒死に続けていることになりますよね。そうして毎秒生まれている。生まれ続けている、同じだけ死に続けている。数秒前の錦戸亮と数秒後の錦戸亮が全く一緒だなんてことは無いでしょうし、ちょっとずつの変化も積み重なって人は変わるのだということを、私が私に思い知らすためのことばです。物騒ですね。

 毎秒死に絶えて、毎秒同じ分だけ生まれているとすれば、錦戸亮(31)が生まれてしまった世界ではどう足掻いても錦戸亮(30)には出会うことはできません。錦戸亮(30)はすべて死んでしまった過去の産物です。「錦戸亮」という麗しい名前の後ろに「(30)」と付く期間が365日間しかないということを、はたして私たちはきちんと理解していたのでしょうか。覚悟は足りていたのでしょうか。祝おうとも嘆こうとも、30歳の錦戸亮は二度とこの世に帰ってこず、どんな感情を抱えているかはさておきファンは31歳になった錦戸亮を受け入れて、そうして今日から365日間、錦戸亮(31)をめいっぱい好きでいるしかない。そう思うと1分1秒が勿体なくて仕方ないこの11月3日です。

 

錦戸亮ちゃん31歳のお誕生日おめでとうございます!!!!!31歳って何歳なんですか!!!!!!!!!30歳の錦戸亮ちゃんに全身全霊でお礼を申し上げたい所存です!!!!!

 ありがとうございますおかげさまで一年間とっても楽しかったです。30歳のお誕生日はごめんね青春!の現場でお祝いしてもらってましたね。こんな好きになれる!?ってくらいへいちゃん先生を演じる錦戸亮に沸いた去年でした。ビジュアルが天使だった。三十路になると人って天使になるのかな、と考えたりもしました。あれからもう一年だなんてやはり覚悟が足りなかったのかもしれないと自責するばかりです。勿体ない、もっと心ゆくまで愛でればよかった。

 去年のツアーの東京ドーム公演*1で、すばるさんがへいちゃん先生の演技のことをひたすら褒めていてもう、呼吸もままならなかった記憶があります。あれも30歳のことなのですね。過去ですね。30歳素敵だったなあ、とひたすら思い出に浸ってしまいそうです。とはいえ、毎秒毎秒死んでいったその屍を積み重ねていって30歳の彼が生まれているのであって、こんな30歳になっていると知ったら死んでいったたくさんの錦戸亮も報われるのでは、と思ったり、さすがに考え方がまともじゃないな、と反省したりしています。

 前回のブログで「いつか錦戸さんがスタンスを変えてすべて洗いざらい話してしまうかもしれないことが怖い」といった旨の記述をしましたが、それも、こういう考え方に起因しています。生まれ続けている錦戸亮が死んでしまった錦戸亮と全く同一の考え方をしているとは限らない、「寡黙」という美学だって捉え方が変化して「話せることは伝えるべき」と説明責任を果たしてくれようとする可能性だってゼロじゃない、というそういう決してマイナスではないけれど変わっていくことによっていまとは違うことが起こりうる可能性は十分あるんだろう、と考えたから、でした。生まれ変わって、変わっていく錦戸さんを悲しんでしまうようなことだけは、けして、したくないと思っています。出来るのかな。心配です。「過去は過去であるというその一点においてのみ素晴らしい」というようなセリフがこの間観た舞台*2にあって、まさしくそうだなあと思います。もう二度と会えない代わりに、もう誰にも過去の思い出を侵されない。侵されるとしてもそれはタレント本人のことばだったり、に限られます。変わっていくのは致し方ないとして、過去を踏みにじられなかったらいいな、と思って少し不安になってもいます。とはいえ、この2015年、31歳を迎えた錦戸さんを好きでいられているのだから、どうせ出来るのだろう、と安心しきって楽しみにしている部分もあります。

 だって、30歳の錦戸亮、とても魅力的だったでしょう?

 ファンになった当初、20代前半だった彼を応援しながら「この人が三十路になっても好きでいられるのかな」ってたまに不安を覚えたりしていたのですが、このザマですから仕様がない。大好きだよ…なんなら20代前半よりも好きになってるよ……。人に冗談半分で「あなたが想像しているより、わたし錦戸亮ちゃんにベタ惚れですからね」とよく言うのですが、自分で想像しているよりもベタ惚れなような気がして、もう自分でたまらなくなっています。かっこいいんですよお、もう、本当に。大正解。

 さいきん、錦戸亮ちゃんのインタビューが一風変わってきて、「もしや過渡期?」と思ったりもしますが、過渡期という言葉を辞書で引くと「定まっていない時期」とも出るのですね。定まっていなくはないかな、と思って過渡期という言葉を訂正します。もしくは、わたしが彼を見る観点が少し変わったのかもしれません。自担が変わったのか、わたしが変わったのか。ただ、なんとなく、ニュアンスとして「もしかして、錦戸亮は変わっていっているのではないか」という、人は変わるというのは普遍的な真実だけれど、それが今まさに彼に起こっている、そういうことを実感させられているような気になった一年だったということです。毎秒死んでいるのだから、変わっていかないわけはない、のだけれど、まざまざとその変わりゆくさまをわたしたちはいま、見ているのではないか、という思いにさせられる。その反面、変わっていないところも克明になる。こういうときに、雑誌のインタビューなどを引用して、こういう風に彼が言っている、昔ならこんな風に言わなかった、昔と今を比べてこう言っている、などとしたくなります。所詮インタビューなんて、答えているタレントにとってはそこまで重要度の高いものでもないことも、ある一面だけの真実性の乏しいものであることも、分かってはいるのですがどうしても、躍起になってしまいます。インタビュー記事につられて買うとき、言質を取ったった感が抜けなくて、今回は差し控えますが、いざとなればこのインタビューを盾に……!なんて考えてしまいます。

 そもそも、わたしは錦戸亮ちゃんの何を知っているのだろう。好きなタレントについて「顔と名前くらいしか正確に知らない」といったようなことがたびたびオタク界隈で言われますが、顔も果たして本当に知っているのか。バラエティ番組にゲストで彼が出ているとき、わたしはその番組を見るけれど、なんだか不思議な感じがします。わたしがこの人のファンなのかと新鮮な気持ちになります。わたしの好きな「錦戸亮」と世間でジャニーズタレントとして知られている「錦戸亮」は果たして同一人物なのでしょうか。わたしは誰のことを好きでいるのだろう。本当に錦戸亮なのかな。錦戸亮ってどんな顔してましたっけ。

 と思って、不意に、なんらかの媒体で錦戸さんの顔を見るじゃないですか。すると「えっ、なにこのイケメン!?えっかっこいい、だれこれ、めっちゃかっこいい!めっちゃ好み!!」ってどんぴしゃで心を掴まれるんです。そのあとに「あっ、これ錦戸亮ちゃんだった…自担だ…」となります。そして「この人、自担なの…!?わたしがお金を費やしている人この人なの…!?」となるんです。べた惚れの真相はこれです。疑心暗鬼になっても、前後不覚になっても、結局、浅はかなほどに惹かれていることを思い知らされて、一層深みに堕ちていくんです。特に何も考えずに、キーボードを叩いていますが、いよいよ頭が痛い子だなという自覚が芽生えてきました。

 年月は確かに経っていて、わたしが好きになったころの錦戸亮はもうどこにもいない。どこにもいないけれど、わたしはそれでも錦戸亮を好きなままでいる。きっと、変わらないものはいくつかあって、その変わらないものがある限りは何かが変わってしまっても、相変わらず好きでいられるのだろうと思います。つまり何って、好き!ってことです。それだけです。一般的目線とか、客観性とか、社会的な彼の立場とかどうでもいい! 彼がどんな意識をもって仕事をしようが、それに感嘆するのは二の次で、一番に「好き」という感情が先行するのだと思います。何が好きなのかわからないけれど、好きだと思っている間は、もう好きなんででしょう。理由なんて、探せばいくらでも言えるけれど、それはわたしが彼のことを好きだと思っているから、なのです。好きだから、好きな理由を見つけられるのです。好きのゲシュタルト崩壊を起こしそうなブログですが、お誕生日なので許してください。

 正直、グループの色に染まり切ったりして、変わっていく錦戸亮を目の当たりにして、とても楽しいと思っています。この間、Johnny's webがリニューアルしましたが、錦戸亮の年別バイオグラフィーの2006年と2013年の仕事量の差に驚きました。責任とか規模とかが増したのだろうとは思いますが、それでも、圧倒的に少なくて、こんな風に環境が変わって人が全く変わらないなんてことあるはずがない。もう、彼が目立たなくても関ジャニ∞として不足なく成立するような時代で、関ジャニクロニクルでキャラもののコーナーもらえたり、ジャニ勉でも率先してチャレンジしていく彼を見て、たまらない面白さを感じています。最近よく前髪を上げて固めるヘアスタイルが多くて、ファンはそれを嘆いているのですが、それすら遊びの一種のように思えます。錦戸亮の前髪というコンテンツで遊んでみせている。おそらく、前髪があろうがなかろうが、結局どうしたって好きなのに、「前髪があればうれしい」とファンは思って前髪がないと嘆いてみせる、そういう髪型ひとつで惑わされるこの状況を楽しんでいるファンも一人や二人はいるんじゃないのかなあ、と思います。そのうちの一人が私なのですが。かつては、関ジャニ∞のエースとして(いまでもそうだとは思っていますが)がむしゃらに働いてきた時代があって、けれど、もういまでは足並みそろえて他のメンバーと同じ仕事が出来る。同じスピードで歩いて行ける。かつて彼が切望していたバンドとしての関ジャニ∞も認められてきて、次のステップにメンバー全員で臨もうとしている。そういう今日も、それはそれで良いな、と思います。きっと彼がたくさんのものを諦めてでも今日まで死にもの狂いで守り切ったものが、関ジャニ∞としての自分だったのだろう、と思うので。そういう過去にはもちろん敬意を払いながら、いま、たった前髪だけに一喜一憂している(わけではないですけど)。たまらなく平和で、そうしてたまらなく楽しいファンとしての姿勢だなあと個人的に思います。まあ、ファンにしてみればもうなにより重要なことなんですけれど!!もっとビジュアルに気を使ってくださいよ!!!と文句も垂れてみたりして。

 プライベートでも、アサイーにハマったり(なにその食べ物!)、忙しすぎないときは週3でジムに行くと公言していたり(かっこいい!)、挙句の果てにはスケボーに乗って朝ごはん買いに行くらしいのとか(ちょっと何言ってるかわかりません!)、最高にクレイジーでたまらないです。どんどんコンテンツになっていく彼の性格や、物の捉え方、生活習慣などが、彼がアイドルなのだということを思い知らせてくれるし、芸能人っぽいなあとしみじみしてしまいます。そういう錦戸亮というコンテンツの面白さを、きっと今後はより堪能できるはずだ、と信じています。そういう31歳の彼を、ファンという特別な視点からまた一年間見ていたいなと思います。毎秒死に絶えている、今この瞬間の錦戸亮の可愛さはこの瞬間にしか生きていないのだ、と切なくなるほどに言い聞かせながら。

 

 

アイドルは作家である

 二本立てにするべきじゃなかった。説得力もくそもないですね。

 まあ、ずっと思っていたことなんですが、文学専攻の講師が専門に研究している作家について説明してくれるときに「こいつはほんとにねえ!なんなんだ!と思いながら研究して…」とおっしゃっていて、愛にあふれているけれどそれゆえの冷たさも持っていて(作品は褒めるけれど人間性についてべた褒めはしない、とか)、そういうところが、(みんながみんなというわけではなくあくまで一つのパターンですが)ジャニヲタの自担に対するそれとよく似ていたので、やはりスタンスとしてよく似ているのでは、と思った次第です。

 アイドルだって作家だって作品だけを好きになる人だってもちろんいるでしょうが、どういう生い立ちか、どういう時代背景なのか、どういう環境でその作品が生まれたか、ファンなら知らず知らず把握していますよね。もしくは調べたりする。その作家の書いたものなら全部読むという人もいる、そのアイドルが出たものは全部見るという人もいる、逆に、好きだけど全部触れているわけじゃないという人もいる。よく似ていませんか? たとえば、どういうことを思ってその作品を書いたのか・その仕事をしたのか、誰と仲が良く誰かに影響を受けたのか、どういう価値観で生きていたのか、その時代の業界の中でどういう立ち位置でいたのか、そういうことを知ったうえで、改めて本人の仕事っぷりについて考えることが、どちらの場合でもおそらくあるのではないか、と思うのです。どんだけ評価されててもCD売れなきゃ、本が売れなきゃ元も子もないというところも似ているかもしれませんね。

 担当制度についてあれやこれやと議論が交わされていますが、私は、どちらかというとこういうことに近いのでは、と思ったりしています。そのタレントを専攻している、というような。とはいえ、文学専攻の人間ではないので、なんとなーくのニュアンスですすみません…。っていうかやっぱり、二本立てにするべきではなかったですね。

 

 

 

おわりに

 わたしがどれだけ内容のないブログを書いていても、それらを書かせる原動力になっているのが「錦戸亮」というアイドルだと思うと、とんでもないような気がしてきますね。アイドルってすごい。毎日毎日ひたすら好きだ好きだと言っていても、「ああはいはい、ジャニヲタだからねえ」と流してもらえる。ましてや共感してくれる友人がいる。アイドルってすごい。錦戸亮がアイドルでよかった。この一年間も、変わらず健康にいてくれることを、まず、なにより願っています。お誕生日おめでとうございます。とりあえず、手始めに、このブログの文字数だけ錦戸亮ちゃんに幸運が訪れますように!!!!

 

 

 

 

 

 

*1:関ジャニ∞関ジャニズム LIVE TOUR 2014≫2015」東京ドーム12月13日公演

*2:中山優馬さんの「ドリアングレイの肖像」

4年前の錦戸亮のNEWS脱退について、わたしのあれこれ

 10月7日なので。考察とかそういう高尚なものでもなんでもなく、ただ錦戸担のわたしが2015年になってあのときのこと、あれからどう考えたか、いまどう思っているか、をわたしのために書こうと思います。6人のNEWSから入った錦戸担の主観以外のなにでもないのでそのへんあしからず…。山下さんについての言及が異様に少ないです。

 

 

 NEWSさん、山下智久錦戸亮の脱退から4周年おめでとうございます!!何が一体おめでとうなのか、自分でもわからないまま、それでもとりあえずおめでとうと言っています!あの脱退をわたしはいつになったら祝えるのでしょうか!!!!!

www.sponichi.co.jp

 

いつ読んでも、胸がきゅう、っとなりますね。 

 

 

錦戸亮のNEWS脱退についてのわたしのあれこれ

 2011年10月7日の夕方、わたしは友人に「最近NEWSの活動が無い、1年間*1活動がなければ、いよいよ覚悟をきめなきゃいけないのかもしれない」と冗談交じりに愚痴として漏らしていたのを、はっきりと覚えています。そして、その友人と別れて帰宅した20時半過ぎに開いたSNS*2で、山下錦戸の脱退を知ったとき、わたしはただ「そうか、今だったのか!!!」と、自分の1年ルールがただの自分だけのルールだったことを思い知らされました。1年間は大丈夫だろう、とたかをくくっていたんでしょうね。覚悟なんて決める気なかったのでは、とそのとき、自分の浅はかさを実感しました。覚悟なんて無駄だった。いつかはこうなる日が来るだろうと思ってはいたけれど、それが「今」だなんて可能性があることを、本当は少しも理解していなかったんです。

 携帯のキーを打つ指が異様に震えていたこと、もうログが残っていないけれど「二度とNEWSの曲を歌う錦戸亮を見られないのだ」とひたすらSNSで自分に言い聞かせていたことを、覚えています。それ以外のことは忘れてしまいました。あとは、連休明けの学校で、錦戸担のクラスメイトと言葉にならないため息を共有したことや、SNSを見た友人に慰められたりしたこととか。

 

 もう4年も経つのか、4年経っててもこの気持ちの苦々しいのが無くならないのか、とどうにも遣り切れない思いをいまだに持て余しています。

 とはいえ、楽しいんです。関ジャニ∞も、NEWSも。NEWSなんてびっくりするくらい楽しくて、シングルもふざけた曲ばっかりだけど手を抜いていないんだろうなってことがひしひしと伝わってきて、好きなんです。いまのNEWSに出会うために脱退というものが必要だったとしたのなら、しょうがなかったのかもしれない、と思う気持ち半分そうはいってもと思う気持ち半分。

  それでもわたしの好きな「NEWS」がただそこにある嬉しさには勝てない。あの脱退のせいで残らなかったかもしれない、と思うと余計に、残してくれたからあるのだと思うと、余計に。 NEWSの楽曲を残してくれたのは、山下でも錦戸でもなく、紛れもなく彼ら4人なんだと思うと、もう、それだけでたまらなくなります。

 まあ、関ジャニ∞の楽しさは言わずもがな。そこに、掛け持ちという重責から解放された錦戸亮が、ただのひとりのアイドルとしてグループにしれっと溶け込んでいるのを見ていると、もう余計な脱退なんかの心配をこちらがしなくて良いのだ、とホッとします。「NEWSと関ジャニどっちなの?」という定番の質問に苦笑いしてどうにか答えようとする錦戸さんを見なくて済むと思うと。 ツアー日程とかドラマの主題歌とかシングルが出ないのは掛け持ちのせいだ、とか。脱退時の錦戸さんのコメントのズルさが、苦しかった分、もうそういう思いをしないで済むのか、と思うとやっぱりホッとしてしまうんですよね。*3 「掛け持ち」という特別な立場でなくなった錦戸亮を見るのが、初めてだったので、落ち着かない気持ちでいたのも最近はすっかり馴染んできたような気もします。

 でも、それでもやっぱりまだ、ときどき、うじうじと懐古してしまうときがあります。傷があることは覚えていても痛みを忘れたころにふと「全然癒えてなかった!!!!」と思い出します。もう本当にどうしようもない、こればっかりは。色々理由はあって、たとえば、けんか別れしたわけじゃないと言ったくせに交流がないとか、何にも言ってくれないとか、なんかちょっとタブー感出てるのとか、いまだに思うところがある素振りをされたりとか、いつの間にか6人が遠い過去になっていくのとか、NEWSとして活動していた錦戸亮を知らない人が増えていくのとか、そういうの、です。でも、まあ、それもしょうがないんでしょうね、分かってるけど。あと、ただただ、「NEWS」が「NEWSの楽曲」が好きだった、というのもあります。妙な魅力があった、NEWSには、いつも。

 

 

言及する人としない人

 4年前の今日も、わたしはファンでした、錦戸亮の。4年経った今でも変わらず、けれど、妙な方向に思いは捩じれてしまって、勝手に色々愛着を感じたりしがらみをつくったり許せなくなったり、面倒なオタクになってしまった。この4年間で、当時よりもぐん!と群を抜いて加藤シゲアキさんを好きになってしまったので、自担(錦戸亮)のNEWSあるいは加藤さんへのコメントなどにはわりと敏感にいたと自負しているのですが、それでも、あの脱退以後4年間で、彼がNEWSに言及したことはほとんどありません。「NEWSを抜けて」だとかそういう風に言うことはあっても脱退時のコメントやMステでの挨拶以外で「どう思ってNEWSを抜けたか」はいまだに語られてません。それが、彼の美徳だということにはなんとなく気が付いています。

 

www.oricon.co.jp

 

 でもさあ、ひどくない? とも思うわけで。「ずっと悩んでいた」とはいえ、脱退という提案は誰がしたのか、いつ決まったのか、脱退した側は永遠に黙ったままなんですよね。余計なことは言わないほうが得策だけれど、何にも知らないということも、それはそれで寂しい。結局、彼は関ジャニ∞を「選んだ」のか、どうかすら、明かされていなくて、けれどそれが明かされてしまってはよくないのだろう、とは、分かります。もしくは、彼の意思とは違うところで言えない事情があるのかもしれないとも、思います。でも、ほんのちょっと、ほんのちょっとだけ、ひどくない? とは思うわけです。

 

 

 NEWS側はインタビュー等々で、あの脱退について何度も説明をしてくれています。たまにネタのように無下に扱ってみたりして。でも彼らは、そういう形でも話すことがファンへの真摯な態度だと信じているのかな、と感じたりしてわたしはわりと好意的に受け止めています。

 それと、これは特にわたしが勝手に思っていることなんですけど、自分たちで自分たちの身の上に起こった話をすることで、整理をし直し、「物語」として語る作業を通して、彼ら自身が「あの脱退」を彼らなりに受け入れようとしていたのではないか、と思うのです。*4  「物語」にすることで、どうにか折り合いをつけて自分の糧にしようとしていたのでは、とふと考えたり。けんか別れじゃない分誰も憎めなかっただろうから、ましてや抜けたあとだってあっちは事務所の先輩なのだから「脱退した」こと以外の文句も言えないし、「物語」の「起承転結」でいう「転」のような扱いにしようとしたのでは、とか。 NEWS側が被害者のようにいまだに脱退を悲劇として語ることについて、錦戸さんのファンには見苦しいからいい加減やめろというような不満を持つ人もいて、まあ当然NEWSの4人が被害者だとしたら抜けた2人が加害者になってしまうことになるから(そういう状況になるまで、人気のあるメンバーには敵わないやという構図に甘んじていたところもあったかもしれませんし)、言いたくなる気持ちはわからんでもないけど、それでも「話す」という行為の真摯さをもうちょっと汲み取ってほしいなあ、と思いますという愚痴を…思わず。

 

自担の「脱退」を経験して

 そういえば、脱退を知る当事者になるのが初めてだった。NEWSも関ジャニ∞もメンバーの脱退を経験しているけれど、それらの脱退をわたしは過去という枠組みのなかでしか知らない。かつての脱退ももう終わったことなのだろうと、どこかで思いながら応援していたことに今になって気が付きました。わたしが未だに囚われている「2011年の脱退」だって、もう4年前。とっくの昔に過去になってたんですね。けれど、そんな実感は全くありませんでした。「脱退」というあの出来事がわたしの中で過去の出来事になっていないことに気が付いたときに、ようやく「終わってない」と感じる人の気持ちを理解して、ハッとしました。

 でも、「時間が解決してくれる」とかって言いますけど、わたしが2011年ごろにずっと思っていたのは、「時間になんて解決させてたまるか」ってことでした。いま自分がNEWSに抱いている言いようのない切なさを、ただ時間が経つだけで忘れてしまうのなんて嫌だ、と強く思っていました。「無かったこと」にだけはしたくなかったんです、子どもながらに。でも、やっぱり多少は薄れてしまってる。もうあのときのように、4人が並んでいるだけで泣きそうになったりしないし、かつては自担のパートだったところをほかの人が歌っていても昔ほど悲しくなったりしない。この4年の間にも色々なことがあって、それが、いいことなのか、悪いことなのか、わからないし、なんならずっと苦しいままでいたかったけれど、メンバーそれぞれが前に進もうとしている限りは引っ張られていくのかなあ、と思います。

 いま、一番怖いと思っていることは、時間に解決させられることよりも、数年後に、寡黙を貫いている錦戸さんがスタンスを変えて、当時のことを脱退のことをNEWSのことを、もう何から何まで話さないことは無いんじゃないかってくらいあらゆることまで語り尽してしまうことです。知りたいけれど、知ったあとに後悔したらどうしよう。幻滅したりしたら、どうしようか。NEWSについて言及しないあいだは、ファンが勝手に憶測でものを言ったって間違っていると誰にも指摘出来ないので、それぞれファンは好きなように自分で解釈していて良いわけです。けれど、知ってしまうと、現実と向き合わないといけなくなる。本人が言ったこと以外は嘘になってしまう。怖いなあ、と思います。けど、永遠に話してもらえないのも、切ないかな。でも知ってしまって、わたしが信じて縋っているなにかが裏切られたらどうしよう、とやっぱり怖くなります。

    錦戸担の方々は、それぞれ色んな思いをNEWSに抱いていると思うんです。本当にそれぞれ。そういう人たちの感情を、言及しないことによって尊重してくれているのかな、と思ったりもします。本人に明言されないうちは、この憶測だって、間違ってるとも言い切れないでしょう。

 とはいえ、10年後とかに、「ああ、そういや当時はこんなこと考えてたな、若かったな」と、もうすべて解決済みのわたしが懐かしさを覚えながらこのブログを読み返していたりするのかもしれません。そのためにこのブログを書いているのかも。

  

 

加藤シゲアキ『ピンクとグレー』に関するあれそれ

 本編のことはあんまり触れないです。っていうか、もうこの『ピンクとグレー』という小説をファンという欲目を抜きにして読めないし、「加藤シゲアキ」という著者の話をせずには語れないので、純粋に小説を読むということがファンにとってどれだけ不毛なことなのか実感しているところです。

    この処女作はただひたすらに特別です。加藤さんにとっても、ファンにとっても。きっと何かの契機になったデビュー作だと、本気で思っています。

    内容について触れませんが、ただ、わたしはとても好きです。加藤さんが書いていなくても好きだと思う。けれど、この小説を書いているのが加藤さんだったので、加藤さんをもっと好きになりました。

 もろもろのことはみなさんご存じだと思うので、あえて説明しませんが、彼はずっとこの作品を「グループのために書いた」「メンバーがいたから書けた」と言っていました。『ピンクとグレー』発売の情報解禁が2011年11月22日、発売日が翌年2012年の1月30日。この作品の執筆が2011年2月中旬~3月31日の6週間。この辺りは周知の事実と思いますが、今年の『Myojo』のジャニーズ10000字ロングインタビューで、山下錦戸の脱退会議(一方的に知らされるだけのもの)が2011年の4月にあったということがわかりました。同誌のインタビューで加藤さんの小説発売が決定したのは6月と話しています。

 この『ピンクとグレー』の書籍化発表が「新生NEWS」として最初のお仕事発表だったせいか、どうしても「グループのために書いた」というのが「(新生NEWSという)グループのために書いた」と解釈されることが多々あって、わたしは個人的にとてもモヤっとしていました。だって、どう考えても順番が違うでしょう。4人のため、6人のため、そこに差があるのかと尋ねられるとちょっとわからないんですが、まだきちんと脱退を受け入れられずにいたわたしには、その考え方がどうしても嫌だった。

 つまり、書いたはいいものの発売できるかどうかは未定だった4月にメンバー2人の脱退が告げられ、そして6月に発売できることが決まり、NEWSとして活動が出来るか未定のまま10月にメンバー脱退が情報解禁されて、その翌月に加藤シゲアキに改名・『ピンクとグレー』の発売が世間に発表された、という順番かと思われます。

 

  どうしてわたしがここまでこだわるのかというと、ずっと「ピンクとグレーの発売がもっと早かったら錦戸さんはどうしてたのかな」と考えていたからです。あの小説を読んでしまっていたら脱退を考え直しただろうか、それともより堅く決心しただろうか、と。錦戸さんは掛け持ちだったからとはいえ、じゃあ掛け持ちという理由のなかった山下さんは、等々。不毛だとは分かっても、読んだ感想をもっとファンの立場でも聞けたんじゃないのかとか、趣味の合う2人だから・交流の深い彼らこその感想があったのでは、と思うとどうしても考えずにはいられませんでした。でも、実際には、彼の脱退の後に小説が発売になったのだからしょうがない、と言い聞かせて。

 

 ところが、その10000字インタビューで加藤さんは 

(出版が決まったのはいつか、という問いに)「6月。振り返るからそういうことなのかなって思うんですけど、人生の分岐点って、本当にどっちに転ぶかわからないギリギリなところにあるんだなって。書籍化を知らされた瞬間“やった!”ってうれしくて声が出ちゃって。ただ同時に“間に合わなかったな”って想いもあって」

「なぜ、あのタイミングで僕は小説を書けたか。いくらやることがなくても、それだけで“じゃあ小説を書こう”ってマインドにはならなかったと思う」

「もし僕が小説を書き上げたら、グループの未来を変えられるとも思ってた。おこがましいけど。(略)僕が本を出版できれば、“このグループにいたら、もっともっとおもしろいことが起こるかもしれない”って思ってもらえるんじゃないかって。」

「6人のNEWSを守りたくて書いてたんだけどね。止められなかったけれど。止めたかったな。」

  と言っています。この2015年にどえらいものを放り込んでくれたな、という憤りにも似た気持ちを抱いてしまい、このインタビュー記事のせいで今年はブログを書くしかない、と思い立って書いています。無責任に想像していたことを、書いている本人が小説を書いてしまえるほど願っていたなんて知らなかったんです。

 こんなブログ読むよりよっぽど良いと思うので未読の方はどないかして手に入れてください。本屋で購入前に待ち切れず立ち読みして本文確認したら、たまらず泣きそうになって慌てて購入した人間がオススメします。加藤さんは自分の弱さを糧にするのがとても上手だし、そういうところを公に話せる強さを持っているところがとても魅力的で、応援していたいと素直に思えるアイドルだなあとつくづく感じます。

   

 つまり、まあ、錦戸担のわたしは、あれだけ可愛がっていた後輩が小説を書くだなんて錦戸さんもきっと喜んだだろうな~と思って、でも、その小説がそういう想いから生まれたものだということについてはどう思うのだろう、けっきょく直接シゲに感想言えたのかな、とぼんやり考えています。きっと答えはくれないんだろう、と知りながら。 とか思ってたら、この加藤さんみたいにぽろっと爆弾落とされたりして「あーーーーーー!!!!!!!」ってなるんでしょうね。なるかな。ならないね。

 丸山さん・加藤さん・錦戸さんで食事に行った話も、さらっと以前に関ジャニ∞の対談で錦戸さんと丸山さんが話していましたが、加藤さんが言うには脱退以後錦戸さんと食事に行ったのはその一度きりで、しかも錦戸さんに「がんばれよ」と言われてから食事中ずっと泣いていたそうで。ぜんっぜん和やかじゃなかった!!!!関ジャニ∞の対談のほうではなんとなく、そんな大したことじゃないけど、みたいな口ぶりだったから油断していたけれど、後輩泣かせるってどうなの…といまだに動揺しています。

 それと、脱退を知らされた会議で見た山下錦戸の背中を忘れずにいたい、あのときの悔しさをこれからの自分の活力にしたい、というようなことを加藤さんがインタビューで言っていました。加藤さんは「未練もないのか振り返らなかった」と言っていたけれど「振り返れなかった」のかもしれないよね、と、彼らが教えてくれないうちは誰にもわからないことを考えたりします。

 

2015年という年

 そういえば、このインタビューで2011年4月には脱退が決まっていた、と知って、わたしはそのあたりのメディア露出を見返すことができなくなりました。自分があのころ、あの4月に何を考えていたのだろう、と今になってよく考えます。こうしてブログを書きながら、こうしてつらつらと書いていることに意味はあるのだろうかとも、考えてしまいます。書いている間は理性的でいられますけど、この季節になると、ふっと2010年のコンサートの帰り道を思い出してあのときはまさかアレが最後になるなんて思いもしなかったなァ、と感傷的になります。困った季節です。

 行きたいと思うコンサートがあるなら、絶対に行くべきです。最後になるかもしれないから。

 

 NEWS「White」ツアーのさくらガールの演出に思わず泣いてしまうファンがいたり、2度目の10000字インタビューでいろいろ明かされたり、そうはいっても黙秘を貫く錦戸亮がいたり、弱音のようにぽつりと本音を漏らす山下智久がいたり。小山さんと手越さんがインタビューで言っていた、山下が辞めたがっているのは気が付いていたけどまさか錦戸までとは、というような言葉の意味とか。錦戸に「もっとがんばれよ」と言われて泣いてしまう加藤さんとか。考えれば考えるほどキリがないです。答えも出ないことが分かりきっているので、言葉にできないけれど。でも、普段言わないだけで、抱えきれないほどのもやもやをいまだにあの脱退に抱え込んでいる。メンバーだけじゃなく、そして、たぶん、わたしだけじゃなくて大勢のファンもそうなのだろうなと思います。できるのなら、同じ気持ちを抱える人とこのどうしようもない気持ちを共有したいです。もう、いい加減、しんどい。ぜんぶ、なかったことにしたい。けんか別れしたんじゃないなら、もっと一緒に笑っていてくれたらいいのに。それだけでいいのに。

 

 NEWSというグループは相変わらず最高に楽しいです。楽しさの度数は計れないのでなにとも過去とも比べることができませんが、「NEWS」というグループの持つ根底にある何かはずっと昔から変わっていないような気さえします。それは主力メンバーの脱退を経た上でのメンバーの努力の賜物なのかもしれません。いまのNEWSは過去のメンバーがいた時代を、ある視点から見れば「引きずっている」ようにも見えるし、また別の視点から見たら「大切にしている」とも感じられます。こればっかりは見る人次第だなあ、と思います。

    もし、錦戸担でNEWSのコンサートに行こうか、NEWSのDVD(2012年以降の)を観ようか迷っていらっしゃる方がいれば、わたしはまず、オススメします。安心して観るべきです。何も損なわれていないし、蔑ろにされることもありません。彼が歌っていた楽曲は丁寧に、引き継ぎがなされているし、そこにNEWSのすべてがあるように思えます。

 錦戸担のわたしが一番欲しかったことばをくれたのは加藤さんでした。引きずっている自覚のある加藤さんは

「今、“4人になってNEWS良くなったね”とか、“個々のキャラが目立つようになったね”とか言っていただけるんです。でも、それを6人でもできたと思うんです。結果論かもしれないけど。今がいいから、あれが最善だったとは、僕はいまだに思えなくて。」

 と発言しています。こう思ってくれているメンバーが一人でもいるのなら、それでもう充分です。いまだって大好きだけど、楽しいけれど、6人だったらもっとよかったなと思う気持ちがどうしても無くせなくて、それを感じるたびにこんなに楽しい今を否定しているような気がしてツライと思っていました。加藤さんがこういう想いを抱えて活動していることはしんどくないのかな、と邪推してしまったりしますが。

 そうはいっても、あの脱退をいまだに喜ばなくてもいいんだ、まだもやっとしたままでいいのかもしれない、と思える2015年が来たことはとてもうれしいです。あまりに必死に現実を見ようとし過ぎたせいで、4人のNEWSと6人のNEWSが別物で、どこかの世界には活動していないだけで6人のNEWSはまだ存在しているのでは、というようなバカなことをぼんやりと夢想してしまうこともあります。けれど一方で、順調に時間に解決されていってしまっているなァと自覚して切なくなったりもします。

 

 

 

 長々とろくでもないことを書いてきましたが、きっと書き損ねたことはたくさんあって、それでもこうして書かざるを得なくなるくらい自分のなかにたくさん思うところがあったのだとようやく自覚しました。まとまっていなくて、すみません。

 言わない錦戸亮をかっこいいと思いながらも、わたしには無理だった。言わずにいることの大変さを身をもって実感しています。好き勝手言い放題の私的なブログにも関わらずここまで読んでくださった方がいるのなら、ありがとうございます。こういう錦戸担がNEWSのコンサートに入って『4+FAN』*5で何かに圧倒されながら手拍子してるんだと思っていただければ。

 「僕らはなぜ出逢えたのだろう」というフレーズは『share』の歌詞ですが、まさしく、これだろうと思います。いま、彼らが同じ星を見られていたらいいなと思います。いまがむりなら、いつの日か。わたしはその日を待ち続けてしまうのだろうと確信を持って、言えます。

 

 

 

 

 

 

 

※10月10日 追記

*1:2010年のコンサートDVDの発売からではなく「Fighting Man」の発売からと個人的に決めていました、キリが良かったので

*2:公表は19時頃だったと記憶しています

*3:錦戸さんは「脱退=掛け持ち解消」になるのがすごくズルいですよね

*4:小川洋子の『物語の役割』という本を読んだときに思いました

*5:2013年のアルバム「NEWS」収録曲

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